満州国4~石原莞爾の中国観の変遷~(石原莞爾5)

満州国 ~石原莞爾編~ - 王蟲の子供
満州国2 ~満州人脈編~ - 王蟲の子供
満州国3 ~大東亜共栄圏と左翼の思想的類似性~ - 王蟲の子供 
石原莞爾2 - 王蟲の子供
石原莞爾3 ~最終戦争への準備期間としての統制~ - 王蟲の子供
石原莞爾4 東亜・大東亜の範囲 - 王蟲の子供

 

石原莞爾の著作や講演録は満州事変以後のものがほとんどなのですが、事変前の昭和六年五月に「満蒙問題私見」というのを書いています。この時期は満州建国ではなく満州領有を考えていた時期です。何故満州を勢力下に置くべきかということですが、まず既にこのころから既に日米による最終決戦が行われるという思想が前提にあります。北満まで勢力下に置くことによってロシアは南下出来なくなり、初めて安心して南の米英と戦うことが出来る。

 

この満州領有論の時期の石原莞爾は中国人の能力に疑問を持っていて、在満三千万人の共通の敵である軍閥の打倒は日本の使命だと言っています。そしてそれは支那本土の統一を招きそれは欧米の経済にも良いはずだが、嫉妬心の深い欧米諸国はことによっては武力によって反対してくるだろうから、それを覚悟しなくてはいけない。満蒙問題は対支問題ではなく対米問題だと。

 

この他、食料問題、工業問題、失業者問題、朝鮮問題など色々少しずつですが触れられてて面白いのですが、今回は触れず、石原莞爾の対中国観について書きたいと思います。この時期は先程も書いたように中国人の能力に疑問を持っていた。昭和十七年、満州事変から11年後に「満洲建国前夜の心境」というのを書いています。それによると石原の支那問題に対する関心は幼年学校からのものであり、辛亥革命の時には万歳を叫んで喜んだそうです。しかしその後結局軍閥軍閥の抗争で革命の精神は実現せず、中国人の政治能力に疑いを抱くようになった。そこで日本の存立のためだけでなく中国人の幸福のためにも日本が満蒙を領有すべきと強硬に主張した。しかしその後蒋介石による統一が進み、また満州事変の時の満州人、漢民族の日本軍に対する献身的な協力を見て中国人自身による革新政治は可能と考えるようになり領有論から独立建国論に転じた。とのこと。

 

これまでも何回も書いてきたように非常に中国に甘い見方をする石原莞爾も一時期は疑問を持っていたころもあったってことですね。石原莞爾は昭和二十四年(1949)に亡くなってますが、その後の大躍進政策などを見てまた中国観を変えたでしょうか。仮に変えたとして、では日中国交正常化、或いは改革開放路線後はどうでしょうか。

 

姐さんは日本が大陸半島のどうしようもない姿を見て、特に日露戦争後ぐらいからあアジア主義的な機運が高まってきた気がすると言ってました。あれだけ東亜大好き石原莞爾も当時の中国を見て幻滅せざるを得ない状況だったのでしょうが、ちょっとしたことがきっかけでまた中国への期待を持ってしまう。

 

そう考えると、石原莞爾も批判してた他民族蔑視の傾向が見られたことと、アジアの盟主としてアジアを導き解放しなければならないという使命感は表裏一体のものかもしれません。どちらにしても傲慢と取られても仕方ない。衷心からのことというのはあまり関係がない。近代文明を教えてあげたとか、戦後日本に民主主義を根付かせてあげたとかいうアメリカの傲慢さと似てる。

 

こうは言っても僕は戦前の日本を悪意を持ってしか見ない日本人は心の底から軽蔑してますけどね。私が考えているのは過去の失敗を繰り返さず今後に活かそうということだけです。

 

「満蒙問題私見」と「満洲建国前夜の心境」はともに下記のサイトに載っています。

http://www2s.biglobe.ne.jp/t_tajima/nenpyo-5/ad1931b.htm

 

石原莞爾6~昭和維新とアジア主義~ - 王蟲の子供

石原莞爾4 東亜・大東亜の範囲

満州国 ~石原莞爾編~ - 王蟲の子供
石原莞爾2 - 王蟲の子供
石原莞爾3 ~最終戦争への準備期間としての統制~ - 王蟲の子供

 

前回、国家主義から世界統一に向かう中間に国家連合の時代があり、それが4つに収斂しつつあるという石原莞爾の主張に対し、論拠が曖昧だと書いたんですが、第二次近衛内閣で閣議決定された基本国策要綱にも似たような記述がありました。

世界は今や歴史的一大転機に際会し数個の国家群の生成発展を基調とする新なる政治経済文化の創成を見んとし
基本国策要綱 - Wikipedia

当時の世相として、こういう見立てが割と常識だったのかもしれませんね。ただし石原莞爾の言うような国境までなくすようなところまで踏み込んで書いてないので、もっと緩やかなブロック経済圏ぐらいの意味なのかもしれません。

 

この近衛内閣の基本国策要綱を見ると、これ以外にも石原莞爾の主張との類似性が多々見られます。石原莞爾の方がより政策的にも具体的で、しかも社会主義国家のラディカルな政策のようですが。石原莞爾自身も、基本国策要綱ではないですが、近衛声明は東亜連盟の思想と相通ずるところがあると言っています。

第三次近衛声明 - Wikisource

 

こう見ると大東亜共栄圏という発想は特段誇大妄想的なものでもなく、当時としては自然な発想の一つだったのかもしれません。ちなみに基本国策要綱にしても石原莞爾の東亜連盟にしても基本は日満支の連帯です。南方に関してはどうなのか。東條英機極東軍事裁判での証言を見てみましょう。この基本国策要綱の時点での「大東亜」にはどこの国民が入るのかという質問に対してです。

東条証人

はい。日本及び日本国民。中国、中国国民。満州国満洲国民。タイ国、タイ国民。仏印仏印国民-----もっともこれはフランス領ですけれども。オランダ国、オランダ国民、すなわち東インドですね、仏領インド、仏領インドの国民-----いや、蘭領インドの国民です。

 

キーナン検察官

 それで全部ですか。

 

東条証人

 この当時は、そういうふうな、まだ漠然たる考えしか意味していなかったのです。「大東亜」という言葉は時代によって変化しております。殊に大東亜戦争-----あなた方で言うならば太平洋戦争-----これ以後において非常に変化したのです

 

キーナン検察官

 それでは、フィリピン群島も大東亜圏の中に包含されていたのですか。それとも除外されていましたか。

 

東条証人

 この当時、すなわち一九四○年の七月の頃においては、まだフィリピンというものは明確な意識に入っておりませんでした。

 

キーナン検察官

 当時、あなたの観念の中に明確にはなかったということですが、それでは明確にではないにせよ、あなたの観念の中にフィリピンという構想が少しでも入っていたかどうか。

 

東条証人

 この場合には、「少しでも」と仰せになれば、それは少しは入っていたでしょうけれども、明確にはこの際にはまだそう熟していなかったと申し上げているのです。明確になったのは太平洋戦争以後です。

 

キーナン検察官

 それでは、マレー諸国はどうですか。

 

東条証人

 忘れていました。マレーも入っています。

 

キーナン検察官

 それでは、あなたの記憶をもう少し新たにしていただけませんか。あなたはマレーのことを忘れていましたが、それではインドの方はどうですか。あの小さなインド。

 

東条証人

 インドは相当に大きいのですが、この際においてはインドのことは深く考えておりませんでした。但し貿易的には、もちろん当時関係はありました。

 

キーナン検察官

 それではビルマはどうですか。あなたがすでに含められたのに、私が忘れたのでしょうか。聞き漏らしたのでしょうか。

 

東条証人

 いや、私はそれはわざと申し上げなかったのです。すなわち、この時代に「大東亜」というときには、まだそこまでは意識していなかった。ビルマというものがはっきり意識されて来たのは、太平洋戦争後です。

 

キーナン検察官

 オーストラリアはどうですか。

 

東条証人

 そんなものは入りません。

 

では石原莞爾の考える東亜、或いは大東亜はどうでしょうか。昭和17年10月30日発行の「昭和維新宣言」で東亜連盟の範囲について語ってる部分。

アジア主義は八紘一宇に至る中間の美しい理想である。しかし大アジア全部を共同内に入れることは、今日まだ希望の範囲を超えることはできない。我等は欧米覇道主義の厭迫を排除し得る範囲に東亜連盟の範囲を限定しているのである。言い換えれば、東亜、特に現在日本の武力が絶対的優勢を占め得る地域である。 吾人はシンガポール以東濠洲を含む地域を東亜地域と読んで、軍事的に右述べた地域と信じておった。大東亜戦争の発展によってこの地域が、皇軍武力のもとに瞬間的に、東亜連盟の結成を迅速に可能ならしめる状況になってきたことは我々の感激に耐えないところである。

 

しかしどこまでも東亜連盟の中心は日満華の三国であることを忘れてはならない。南洋人は我々は解放しなければならないが。今日南洋に優秀なる民族は存在しないのである。遺憾ながら最終戦争において彼らに多くを期待することはできない。

 当時の優生学思想バリバリの差別的発言ですが、なんでこんなに中国人が好きなんでしょうね。日米戦争は時期尚早として反対してたという石原莞爾ですが、当然戦争中は絶対に勝たなくてはならないと言って、この時期はすでにミッドウェー海戦後とは言えまだ意気軒昂な感じですね。

 

大東亜共栄圏に関して、日本の侵略なのか、植民地解放なのかという結論の出なそうな議論がありますが、昭和16年2月3日の第8回大本営政府連絡懇談会に於いて次のような事項が承認されています。

三、帝国、は大東亜共栄圏地帯に対し政治的指導者の地位を占め、秩序維持の責任を負う。この地帯に居住する民族は独立を維持させ、あるいは独立させるのを原則とするが、現状で英国、フランス、オランダ、ポルトガルなどの属領である地方であって独立する能力のない民族については、それぞれの能力に応じて出来る限りの自治を許容し、自らは統治指導の責務を負う。

https://www.jacar.go.jp/nichibei/popup/19410203a.html

この会議で陸軍(陸相東條英機?)が「民族独立のことは朝鮮のこともあるから慎重なるを要す」と言うのに対し、松岡洋右外相が「百年の大計を考えたるものなり朝鮮の件は分かって居る」と答えるやりとりがあります。返す返すも日韓併合は痛恨事ですね。

 

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資料2:対独、伊、蘇交渉案要綱(『大本営政府連絡会議 議事録 其の一』の一部

満州国4~石原莞爾の中国観の変遷~(石原莞爾5) - 王蟲の子供

石原莞爾3 ~最終戦争への準備期間としての統制~

満州国 ~石原莞爾編~ - 王蟲の子供
石原莞爾2 - 王蟲の子供

石原莞爾の考えがマルクス主義に似てると書いたのは、必然的な歴史的段階を辿ってマルクス主義ならば共産主義社会の実現、石原莞爾なら世界統一がされ(マルクス主義でも世界革命という考えがあるから似たようなものかもしれませんが)、人類の前史が終わるという考えからです。しかも石原の場合も結局ほぼ西洋史をもとに考えています。これは石原自身も知識の不十分を認めていますが。

 

私はこの時点で両者とも全く机上の空論でしかないと思ってます。マルクス主義では資本主義社会の矛盾によりプロレタリア革命が起こり共産主義社会へという流れでしょうが、では石原莞爾の場合はどうなのか。また前回も貼った表を再掲します。

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国家主義から世界統一の間に国家連合の時代があり、現在(石原莞爾の時代)は国家連合に収束しつつある時代ということです。そしてこれは4つに統合される。東亜、アメリカ園、ヨーロッパ圏、ソ連圏ですが、なぜこの4つなのか。

 

まずソ連社会主義連合、「共産主義への世界の魅力は失われましたが」この20年の経験と実力は無視できないと。魅力はどう失われてたんですかね。大川周明の「日本二千六百年史」(昭和14年発行)には

之を今日の吾国の共産主義者が、ロシアを「吾が祖国」と呼んで恥ずるところなきに比ぶれば 

 と書いてるんですが。これはやばいねー。尾崎秀実のようなのも生まれるわけだ。これに対して警戒感を抱かないほうがおかしいよね。とは言え、自らの主義に反するものをなんでもアカとレッテル貼りして排撃することには石原莞爾も警鐘を鳴らしてます。まあこれはまた別の話ですね。閑話休題*1

 

次にアメリカ。南米諸国は経済的にヨーロッパとの結びつきが強いし利害、感情ともに一致せず、合衆国を中心とするのに対する抵抗は根強いけども、だいたいアメリカの連合に向かってると。

 

そしてヨーロッパ。石原によればナチのような独裁者は打倒して自由主義に基づく新しいヨーロッパの連合を作ろうというのがイギリスの知識階級の世論だと。ドイツもフォン・パーペンが「ドイツが勝ったならばヨーロッパ連合を作るのだ」と言ったようにナチの理想に基づいたヨーロッパ連合をつくるのがヒットラーの理想だろうと。いずれにせよヨーロッパ連合に向かう。現実には大英帝国というブロックがあるけれど、19世紀で終わったもので、現在の領土も日米の自重によって保持出来てるに過ぎないず、ベルギーやオランダ同様実力以上の領土を持っている。

 

最後に東亜です。日支は現在大戦争中だけども、開戦当初から代償は求めず、日支の新しい連携を確立できればよいと言ってる。今は本当に連携するための悩みだと。明治維新以来民族国家を形成するため他民族を軽視した面は否定できずこれは反省しなくてはいけない。中華民国民族主義も新しい時代に即したものに変わるだろう。科学文明に立ち遅れた東亜は精神力、道義力によって連帯しなくてはならず、聡明な両民族は分かるはずだと。

 

なんだかどれも論拠が曖昧な気がします。僕も全ての著作や講演録を読んでるわけではないので、もし説得力があることを書いてたら追記します。さも当然かのように書いてるので当時の感覚がないと分からないのかもしれません。いずれにしても国家主義から国家連合に変わるということで、ではこの時代の指導精神は何か。国家主義の時代は自由主義で、国家連合の時代は統制主義だそうです。

 

国家主義の時代というのはフランス革命からを言ってますが、百姓に戦争させるわけだから、それまでの傭兵のように熟練を要する横隊戦術は採れず、散兵戦術を採用した。これは各兵、各隊に自由を与える自由主義の戦術だそうです。第一次世界大戦以降は兵器の発達により、縦深防御の面式の戦術となり、この戦術で自由に任せていては混乱に陥るから統制が必要になった。

 

この「統制」という言葉が少し分かりづらく石原莞爾の場合も全体主義という意味に近く使われてることがあります。いずれにしても当時のソ連やドイツがこの代表。両国の急速な発展を見て、多くの日本人がこの統制主義を見習うべきものと考えたんでしょう。ドイツやソ連のの発展は驚異的なものに映ったようですね。統制主義の能率については戦後の「新日本の進路」で次のように書いています。

アメリカは今日、日本を自由主義國家の範疇において獨立せしめんとしている。しかし嚴密なる意味における自由主義國家は、既に世界に存在しない。そもそも、世界をあげて自由主義から統制主義に移行したのは、統制主義の能率が自由主義に比べて遙かに高かつたからである。イタリア、ドイツ、日本等、いづれも統制主義の高き能率によつて、アメリカやイギリスの自由主義と輸贏を爭わんとしたのである。これがため世界平和を攪亂したことは嚴肅なる反省を要するが、それが廣く國民の心を得た事情には、十分理解すべき面が存するであろう。


ただしアメリカが自由主義から堂々と統制主義に前進したに反し、イタリアもドイツも日本も、遺憾ながら逆に專制主義に後退し、一部のものの獨裁に陷つた。眞のデモクラシーを呼號するソ連さえ、自由から統制への前進をなし得ず、ナチに最も似た形式の獨裁的運營を行い、專制主義に後退した。唯一の例外に近きものは三民主義の中國のみである。かく觀じ來れば、世界は今日、統制主義のアメリカと專制主義に後退せるソ連との二大陣營の對立と見ることもできる。

この中国への甘い味方は何なんでしょうね。ちなみに蒋介石について、抗日をスローガンに支那の民心を一つにした全体主義国家であり、日本のお蔭で支那を統一してると言っています。この点、現在の中国と変わりませんね。しかし彼はそれでも尚中華に甘いんですね。同じく「新日本の進路」から

しかるに三民主義の中國は、蔣介石氏の獨裁と非難されるが斷じてしからず、蔣氏は常に反省的であり、衰えたる國民黨の一角に依然美事なる統制えの歩みが見られる。毛澤東氏の新民主主義も、恐らくソ連のごとき專制には墮せず、東洋的風格をもつ優秀なる思想を完成するに相違いない。我等は國共いづれが中國を支配するかを問わず、常にこれらと提携して東亞的指導原理の確立に努力すべきである。この態度はまた、朝鮮新建設の根本精神とも必ず結合し調和し得るであろう。

 

石原によると、この統制主義を人類文化の最高方式と考える人も多いようだが、この統制は窮屈で緊張を強いるものだから長続きはしない。自由主義と統制主義の昇華されたものが次の時代の指導精神になるだろうということです。これがどういうものかは明確でなく表でも空欄になってますね。王道対覇道の勝者なんでしょうが。端々に輪郭は書かれてるけども明確には書けなかったのでしょうね。まあ少なくとも私は納得出来ませんでした。

 

来たる最終戦争に向けて今は統制主義でやむを得ず、我が国で自由から統制への後退に見える場面があったのも自然の勢いだが、個人の創意や熱情が国家にも大切だから自由を大切にせねばならず、逐次、専制的部分は縮小しなくてはいけない。戦術的にも統制というものは自由積極的に目的のために全力を挙げさせなくてはならないので、自由を抑制するためではなく、自由活動を助長するためでなくてはならない。今の戦術では独断の余地が大きいから日本の上等兵ソ連の中隊長以上でなければならないと考えて下士官に戦術を教育させてたとのこと。

 

また、自由主義と枢軸の戦いのようになっているが自由主義陣営のアメリカやイギリスも統制が進んでると述べています。一番自由主義で成功してるアメリカでの統制主義の表れは「國内におけるニユー・デイール、國際的にはマーシヤル・プラン、更に最近に到つては全世界にわたる未開發地域援助方策等」だそうです。そしてこの統制の時代は最終戦争の準決勝或いは決勝戦前の合宿のようなものだそうです。

 

 

あんまり上手くまとめられなかったかもしれませんが、まあこんな感じ。石原は東洋の戦史を研究しても同じ結論になるはずだと確信しているようですが、マルクス主義と同じように、これまでの歴史の流れを必然と見て予測を立てている。石原の場合は日蓮の予言という宗教が絡んできますが。逆に言うとマルクス主義も宗教みたいなものと言えるかもしれません。ちなみに石原莞爾の思想も当然、社会の進行に伴い若干の変化があります。一番大きいのはやはり敗戦後だと思いますが(とは言え上に引用したところを見ても分かるように全く考えを変えてるわけではない)、少なくともそれ以前の主張で変化してるところは枝葉末節なところなので、大筋私のまとめで追えてるんじゃないかと思います。本当はちゃんと出典を書いた方がいいんでしょうが、だいたい何を読んでもあまり変わらないのですぐ探せるでしょう。もし何か訂正すべき点があればご一報願います。

石原莞爾4 東亜・大東亜の範囲 - 王蟲の子供

*1:その後石原莞爾の「マインカンプ批判」の中でも「マルクス主義の流行した当時、日本のマルクス主義者は狂信的となり、『祖国ソヴエート』などゝ言ふものさへあつた。』とありました。

石原莞爾2

さてさて「最近朝鮮事情」についてのシリーズが終わりましたところで、中断してた満州国関係のシリーズを続けたいと思ったのですが、満州国で括るのはちょっと保留して石原莞爾について書きたいと思います。

 

満州国 ~石原莞爾編~ - 王蟲の子供
満州国2 ~満州人脈編~ - 王蟲の子供
満州国3 大東亜共栄圏と左翼の思想的類似性 - 王蟲の子供

 

では今回は彼の思想について、もう一度振り返ります。石原莞爾は当然戦争が専門であり、ヨーロッパの戦史を詳しく研究し、彼なりの理論を形成します。ではこの図を見て下さい。

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彼はそれぞれの時代の戦争を持久戦争、決戦戦争と分け、指揮単位、政治体制などと関係づけて考察し、これまでの戦争の発達の必然の結果として、将来的に最終戦争が起こり、世界は戦争のない時代に至ると予想しました。

 

これって何かの論の進め方によく似てませんでしょうか。マルクス主義ですね。マルクス原始共産制から、奴隷制封建制、資本主義、社会主義共産主義へと至ると予想したわけです。

 

石原莞爾は全くマルクス主義者ではありませんが(実際しばしばマルクス主義との違いを述べている。)随所にこのような影響が見られます。これは石原だけでなく、当時の多くの知識人が陥りがちな思考法だったんじゃないでしょうか。石原莞爾は当時から異端児だったようですが、それにしてもやはり彼の著作は当時を知る上でも非常に興味深いです。

 

一方彼はアジア主義者という一面を持っています。アジア主義というのも人により大分違い、偉そうに○○主義と名乗れるものか怪しい気もしますが、ざっくり言えば岡倉天心の言う「アジアは一つ」みたいなもんでしょうか。石原は満州事変の首謀者ということから、現中国政府の立場からは日本軍国主義の結晶のように見られるかもしれませんが、やり方はともかく東亜が一体となって欧米と対決するという思想の持ち主ですね(支那事変不拡大派ですし)。王道対覇道という大アジア主義の概念は孫文の大アジア主義講演によく表れています。まあこの講演がどの程度重要なのかよく分かりませんが。

孫文の大アジア主義

 

石原莞爾は精緻な研究に基づく理論を構築するとともに、日蓮宗系の国柱会の信者でもあり、その思想が混在してることがありますが、彼の中では矛盾なく処理されてる模様。彼は世界は今後東亜、アメリカ園、ヨーロッパ圏、ソビエト圏に分かれるとし、これはそれぞれの圏が地域的に近いということも必然性として説かれています。しかし彼の東亜への期待は何なんでしょうね。アメリカとの最終戦争というのが、まず結論としてあり、そのために東亜がまとまるべきという順番に見えますがどうだろう。この最終戦争が日米間で起こるという予想に関しては傲慢だったと戦後反省の弁を述べています。

 

そもそも軍国主義者というのは基本レッテル貼りなので、軍国自体を最終目標としてる人などいるんでしょうかね。戦争は手段でしょう。いるのかな?知らんけど。当時の日本軍には多く宗教の熱心な信者が多く、石原莞爾についても彼の書いたものを見ても、私は全く彼の思想に共感しませんが、彼が理想主義者であったのであろうことはよく見て取れます。

 

アジア主義者の一面として、例えば辛亥革命が起こった時、「…万歳を叫んで新しい中国の前途に心から喜びを示したものである」(「満州建国前夜の心境」昭和十七年)と述べています。よく知られる東條との確執により予備役に回されますが、昭和14年に東亜連盟を結成し、各地で活動を続けます。東亜連盟には中国人朝鮮人も多く参加し、来る最終戦争へ備えるための活動をします。まあこの活動自体は大した影響力はなかったと思うんですが、戦後GHQに解散させられています。

 

 石原莞爾の場合はこの東亜は天皇を中心にまとまるべきものなので、東亜連邦ではなくとりあえず東亜連盟を目指すとなったようですが、それでも日本ではこの「王道」ってのが「皇道」じゃないのかって批判があったとかなんとか。

 

今でも東亜連盟と検索すると石原の道を受け継ぐと称する空手団体が出てきますね。怪しいものですが、それはともかく曹寧柱や大山倍達のような朝鮮人空手家も東亜連盟に参加してたとか。ほんとか分かりませんが、病床の石原を酒田法廷にリヤカーで引っ張っていったのはこの人たちという話もあります。まあこれぐらいの嘘は平気で言うやつも多いので怪しいと思ってますが、いずれにしても中国朝鮮人にも一定のシンパがいたようですね。汪兆銘が中国東亜連盟総会を作ったのに日本の新聞はニュースにしないのは不思議だと言っています。マスコミってやつは今も昔もって感じですね。

 

うーん、全然書き飽き足りませんね。思想に共感してないと言いつつ、その魅力には惹き込まれてるのかもしれません。

 

石原莞爾3 ~最終戦争への準備期間としての「統制」と指導原理~ - 王蟲の子供

最近朝鮮事情所感13

最近朝鮮事情所感1 - 王蟲の子供
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最近朝鮮事情所感8 - 王蟲の子供
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最近朝鮮事情所感10 - 王蟲の子供
最近朝鮮事情所感11 - 王蟲の子供
最近朝鮮事情所感12 - 王蟲の子供

 

明治維新から本書執筆時点までの日朝関係の概略を書いて締めとなります。現在の理解とあまり変わらないかもしれません。なのであまり紹介する意味もないかもしれませんが、長々書いてきた本書の最後の部分なので一部引用しながら要約します。

 

御維新となって新政府は王政復古を伝える国書を送ったが先例と違うとして応じない(書契問題)。幼い朝鮮王に変わって国政を代行する大院君は外国排斥政策を摂っており、日本の官吏の斬髪姿を見て、交際したら惨殺するという布令を出して我が国を退けた。日本では上下みな腹を立て、朝鮮征伐の議論が盛んに起こったが、岩倉右大臣、大久保参議らが欧米から帰ってきて反対した。朝鮮征伐派が下野し佐賀の乱西南戦争に繋がり、大久保も暗殺された。明治8年我が運揚艦が朝鮮の沿岸を計量していた時、攻撃を受けたので応じて戦った(江華島事件)。また征韓論が盛んになったため政府は早く朝鮮と条約を結ぼうと黒田清隆を送った。大院君は容易に聞き入れず決裂寸前だったがようやく屈して日韓修好条約を協定した。これまで朝鮮では守旧党(大院君)と開化党(閔氏)が争っていたが遂に開化党が勝ち、大院君は失脚した。明治15年には開化党の内閣を作り、兵制を改め日本武官に頼んで教師にして練兵をした。

 

そこで失脚派となった旧式兵らは守旧党につくということになり、都提調の職にいる閔謙鎬は旧兵に給米を与えず、たまに与えても禄米に砂石を混ぜて与えたので、旧兵は大いに腹を立て官人を殺したので、旧兵の首謀者を刑罰に処したが、それが一層の騒ぎとなり、閔謙鎬は捕り殺されて、閔王妃も危うい所をようやく逃れたが金壽鉉、李最応、閔昌植ら当局の役人は皆殺され、閔氏一族の邸宅は荒らされ、我が日本公使館も襲撃された。

 

兵を派遣し談判したが開化党内閣が倒れ、大院君が政権を握ったので中々まとまらない。朝鮮が日本に征服されてはいかんと支那も派兵、日朝間の調停をして大院君を捕えて天津に送った。日本と朝鮮は済物浦条約を結んだ。

支那は双方の調停を成功させ、馬建忠を朝鮮政府の顧問にし、兵3000を朝鮮に駐屯させ、朝鮮の政治に干渉しているので、朝鮮はかえって日本を軽蔑するようになった。明治17年支那とフランスが戦いを始め、支那軍艦10隻を沈められ5000人も死んだということで再び日本党の勢力が強くなった。

11月4日京城郵便局の開局祝い。各国公使や朝鮮大官も来ているその晩に、日本党が騒ぎ出して、閔泳翊は怪我をされるやら、宮門は破られるやら、大騒ぎとなって竹添公使もやむなく一中隊の兵を率いて王宮に赴く。王は逃げられる、伊秦駿ら多くの大官は殺されるという始末となり、翌5日に金玉均、朴泳孝らの開化派は守旧派政権を倒してかわって新政府を組織することになったのである。

 

翌6日、大政一新の詔勅を出そうとする所へ、清の袁世凱が国王に謁見を請うても許されないものであるから数100の兵を率いて迫ってきて、王宮を守っている日本兵との打ち合いを始め、国王は恐れて韓兵に守られて清兵のほうにいかれ、彼らは益々勢いを得て清韓領国兵で日本の公使館を襲った。

 (はっきり書いてないので混乱しますが、この時点で閔氏政権は開化派(日本党)から守旧派(事大党)になっていたということ)

クーデターは失敗し政権は事大党の閔氏政権へ戻ったが、日本は井上馨を派遣し京城条約を結ぶ。日清は両国の朝鮮からの撤兵、朝鮮に出兵する際はお互いに通知することを定めた天津条約を結んだ。日清が争っているのを見てロシアは次第に勢力を伸ばしてきた。

(あの風刺画か!)

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この間イギリスの巨文島占領事件があり、また防穀令事件があった。防穀令事件とは明治22年に感鏡道監司・趙秉式が日本に米穀を輸入するのを禁じたので、元山に居る日本商人は40万円も損をしたから、この防穀令の廃止と損害の賠償とを談判したが、当時日本の勢力がなく、その間何人も公使を変わり談判をしたがなかなか聞き入れないで、殆ど決裂となりそうな時に、ようやく大石正巳の時に我が方の要求を容れて条約を結ぶに至ったのである。 

 

それから日本に逃れていた金玉均、朴泳孝を殺そうとして朝鮮の刺客が幾人も来て、遂に金玉均は誘い出されて上海で銃殺され、朴泳孝は東京で危ない目に遭った。幸い暗殺から免れその刺客は縛られたが、これに連なる朝鮮公使・兪箕煥は黙って本国に逃げてしまった。また上海の金玉均の遺骸は日本人が収めて日本に送る途中、上海警察に阻止されて、朝鮮の依頼により軍艦で朝鮮に送った。朝鮮閔族は金玉均を大逆無道の罪として6支の極刑に処し、何日も晒し首にした後、朝鮮8道を引き回して見せるというようなことで、日本人は清韓両国政府のやり方に対し歯がみを見せない者はない有様となった。

 続いて東学党の乱が起こり、日清ともに出兵、日清戦争に至る。(閔氏政権が清国に援軍を要請、日本は天津条約に基づき出兵)

井上公使は改革の方案を立て、大君院を退隠させ、閔妃の干渉を防ぎ、幾たびか勧告の上、金宏集に朴泳孝を加えた連立内閣を作り、政治の改革を図らしたが、井上公使が日本に帰るやたちまち閔妃はロシアのウェーバーと結託し内閣を瓦解させ朴泳孝はまたもや日本に逃げて来るという始末になったから、井上公使は再び朝鮮に向かい、閔族を斥け金宏集を総理に、朴定陽を内務に日本党内閣を組織させた。 

 

ところが三浦梧楼を駐韓公使として派遣し、入れ替わりで井上公使が帰国すると、また閔族一派は日本党を排斥し内閣の更迭を促すと、金宏集らの派は三浦公使を説き孔徳里に隠居している大君院を呼び戻し、大院君は2大隊を率いて日本党と合体し王宮に乱入、閔妃を殺したり手荒なことをやった。

 

日本政府はこれを聞いて驚き、直ちに政務局長・小村壽太郎を送り善後策を講じさせた。三浦公使以下、柴四郎、岡本柳之助らを罪し、井上馨を三度目の朝鮮入りさせた。ところが朝鮮は上の者も下の者も皆日本を危険視してロシアに依頼しようとし、ロシア公使もしきりに日本反対党をそそのかして遂にロシア水兵を京城に入れるに至り、ロシア党は勢いを得て、明治29年の2月には内閣の主なる大臣を殺し、国王や世子らも皆ロシア公使館に赴かれ、死刑やらなにやら気味の悪いことであった。

 ロシアの勢力は盛んになり、朝鮮はほとんどロシア党で固められ、日本の勢力はほとんど皆無になった。ところがロシアの圧力があまりに酷いのでロシアを嫌うものも出てきて、西・ローゼン協定が結ばれ日本の勢力を多少回復した。しかし明治33年の北清事変をきっかけにロシアは満州経営を進め、龍岩浦事件、日露戦争へ至る。朝鮮の外交権を日本に収めて保護国となった。

 

以上でーす。40年ほどのことをまとめてるので、簡単に過ぎますが、まあ大院君や閔氏のコウモリ振りはよく分かりますね。特に日清戦争前後が目まぐるしい。これを責めても仕方ないので、国際政治とはこういうものですよというのを学べればいいんじゃないでしょうか。何度か言及したように、本書の10年ほど前、日清戦争前後のことを書いてあるのがイザベラ・バードの「朝鮮紀行」です。「最近朝鮮事情」よりもまとめて紹介するのは難しいのですが、面白いところだけでもそのうち紹介できればいいなと思ってます。では連載13回、長々とお付き合いいただきありがとうございましたー。

最近朝鮮事情所感1 - 王蟲の子供
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さて前回なかなか耳の痛い内容でしたが、この次には、ハワイやアメリカに行って異人種に使われるより、近くて習俗も近い朝鮮に行こうぜ、ビジネスも将来性あるぜって感じのことを書いてます。

朝鮮に移住する者は、まず朝鮮の事情に詳しい人に内地の有様を聞いておくなどの事は必要である。さらに、前から移住している人に手紙で、その意見を聞いたり紹介状を貰っておくなどは、何かの便利になることがある。

具体的に何を準備したほうがいいぞとか、こういう心構えで行こうぜっていうことが書かれています。この中で朝鮮人に接するときの心構えについて書いてるところを。

また朝鮮人に対しては、すべて堅確な態度を以ってこれに臨むことを常に忘れてはならぬ。例え彼が約束に背いても、我は決して約束を違えるようなことなく、自分が義務を守ると同時に、権利もこれを等閑にしないように、貸した物でも売物の代価でも、期限を決めたら期限どおりにし、決して待ってやるなどのことはしない方がよい。待ったらツイ馴れて始末におえぬようになる。 

 

この様に朝鮮人に対しては取引などは厳格にしなくてはいけない。少々厳しすぎても圧力で以って押し通すという心持ちは必要である。しかしそのその代わり無理無法の事をしてはいけない。正義を以ってこれ圧し、そうして一方では出来るだけ親切にしてやらねばならぬ。ただ約束とか期限などには決して斟酌は要らぬ。 

 

この辺の注意は極めて大切で、ものを押し切ってやり遂げれば、彼らは服従して来たり、また親切にしてやれば懐いて来る。そうなって来れば生かすも殺すも自在で、何事も思いのままになって来るのである。 

 

ただ日本人の幅が利くその勢力に乗じて無法の事をしたり、暴利を貪ったり、彼らを迫害したりすることなどは必ず慎まなくてはならぬ。宜しく文明国民の態度を以って、自ら利益すると同時に、彼らにもまた出来るだけ利益を害せられないようにしてやって、彼我共同の利益を目的として、開発誘導の精神を持っていることが肝要である。 

 

また朝鮮人だといって決して軽蔑するような言葉振舞があってはならぬ。己を馬鹿にしているというような悪感情を起こさせては、かえって我が不利益になることが多い。言葉が通じないから笑ったり誹ったりするのは極めて極めてよくない。礼儀をわきまえぬ者は決して大国民たるの資格はない。努々注意が肝要である。 

 

彼らはまた開けぬだけ恩に感じることは多い。無実の罪で郡守に責められて居たのを助けてくれたというので、鉄道工夫の十人頭やらの記念碑が立てられてあったのを見た。彼らを懐けるのは自分の事業のために必要である。

まあ当然と言えば当然のことが書かれてます。この後、朝鮮の気候と農業、鉱業、漁業などの産業について書かれてます。何度も書いてるように本書の目的は朝鮮に植民して利益をあげようということなので結構細かく書かれています。ここで朝鮮の未開さを書き連ねることは出来ますが今まで書いたことで推して知るべしなことなのでがっつり割愛。ただロシアのことに関しては日露戦争とも関係があり重要でしょうからそこだけ引用します。

抜け目のないロシアは早くからこの森林に目を付け、遂に茂山の森林の伐採権を得て、すでに10年前から盛んに伐り出してウラジオストクに輸送している。茂山は豆満江上流の森林であるが、その後明治29年に至りロシアは鴨緑江上流地方の伐採権を得て、龍岩浦租借をしたものであるからこれが日露戦争の起こる最初の導火線にもなったのである

ロシアの脅威というのは我々が今日想像するよりも大きかったのでしょう。長かった連載も次回で最終回としますが、そこでもロシアとの確執が書かれています。ロシアは中国韓国と違い反日を前面に出さないので中国韓国と比べれば日本人に嫌われてないように見えますが、どういう国なのかというのはよくよく知るべき国ですね。もちろん本書を以って十分とするものでは全くありません。

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さて今回は朝鮮での商売のことなので、前回のエントリーに書いてもよかったのだけど、長くなるので分割しました。そして日本人にとってはとても耳の痛い内容となりますので、今回の連載の主旨から長めに抜粋します。覚悟して下さい(笑)。

いまや世界の一等国にも並ぶ程の勢いであるのに、その実力の元を作る商業貿易、ことに朝鮮貿易がこの様な有様でドーなるものか。互いに国の大事、先々までのことを考えて、着実な利益を図ることに努めなくてはならない。 

 

たとえば一時日本から甲斐絹を朝鮮が輸入して、大いに朝鮮人の気受けが良く、余程評判をとって居たが、それに付け込んで粗製の品を売りつけたので、たちまち彼らから排斥される羽目になり、今では到底取り返す見込みのない有様で、現に絹綿織物は全く支那人の専売という勢いである。一時に余計な無理儲けをしようとして、かえって永久の大損をかもす、なんとも馬鹿らしい話ではないか。 

 

また越後産の石油も一時は相当に朝鮮は輸入していたが、粗製品を出した上に、狡猾な悪い考えを逞しくした結果、忽ちその評判を落とし、落とし、今ではその影も留めないで、朝鮮の石油といったら全くアメリカ油に圧倒されているという有様である。

(中略)

このほかにも日本の商業家が失敗した話は京城にも釜山にも仁川にも沢山ある。しかし一々書き立てて恥をさらすこともあるまい。一度の失策はのちのちの手本として、これから共々間違いのないように注意して、専ら誠実を旨とし、永久の信用を固くすることに努めなくてはならない。 

 

1人の不都合はその人の損に止まらないで、その事業の発達進歩を妨げ、ひいて永久に国の大損となることを知らなくてはならない。かりにも一時一業を営もうとする者は、その位の事は分かっているであろうが、つまり近欲に走って我と我身を苦しめるのを顧みないからで、その様な者が到底勝利を得よう筈はない。くれぐれも注意こそが肝要である。正直が最上の商客、正直に勉強さえすれば、どんな仕事も出来ない事はない。 

 

イギリス人のコフーンが「凡そ製産品は段々良好になって来るのが当たり前であるのに、日本の産品は次第次第に悪く弱って来る。一体に日本人は商業道徳の観念が乏しく、信用上の事はこれを日本人に望むことは出来ない、この点については支那より劣っている」と言ったそうだ。 実際にそうでなくともこの様に思われては損である。ましてこれが事実であるとすれば尚更のこと、名誉の回復は我商人の大責任と覚悟しなくてはならない。

 

日清戦争後は支那人の勢力が大いに朝鮮の社会からおちて、その代わり日本の勢力が延びたようであるが、しかし裏面に入って見ると、マダ朝鮮人支那商人に対する信用の勢力は中々根が堅いように思われる。 

 

それは支那商人は一般に商業道徳を重んじ、信用取引がよく行われて、一旦約束したことは必ず間違いはないようにする。そこで一般の朝鮮人の安心というものが、非常に支那商人に根堅い勢力を与えているのである。 

 

然るに日本商人は前章で述べたように、商業道徳に欠けて、契約の履行など多くは心に留めず、自分の都合が悪ければ勝手に約束を破っても顧みない者が少なくなく、また少し売れると粗製の安物を出して暴利を占めようとしたり、偽ものを送って誤魔化そうとしたり、また或る商人の如きは税関史の目を欺いて脱税を企てたりなど、不信用と不安心の種を蒔く者が多いから、チョット油断するとスグまた支那商人にやられて仕舞う。 また日本商人が支那商人に対して一歩も十歩も譲っているのは、日本商人は支那商人に比べて協同一致の団結力が非常に乏しい。そこになると支那人は感心で、互いに連絡を保って堅く団結して仕事をする風がある。この点は日本人は大いに学ばねばならず、改良せねばならぬ大事な所である。

(中略)

また支那人は朝鮮内地至る所で行商をしているが、その品物の値段でも決して掛値などしないのみか、いかに辺鄙な山奥でも、皆居留地の本店と同様の値段で売り捌いている。その行商者が自分一己の私利を考えないで、一般の信用を重んじ誠実勉強、互いに連絡をとり、堅く団結している有様は実に感心のほかはない。

(中略)

こういう風に日本人では真似も出来ない有様で、日本の行商は大抵常に失敗勝ちである。さらに日本人で行商を企てるのは大抵落ちぶれた壮士や無頼の輩であるから、彼らは往々にして朝鮮人にヒドイ目に逢わしたり、または狡猾無恥なことをやったりして朝鮮人の感情を害している。これでは日本の信用を傷つけることは免れないのであるからこの辺は十分注意して、一方では相当の取締りをすると同時にまた一方では行商の奨励をしなければならぬ。 

 

先にロシアが跋扈した時代に、行商の危険があるからといって防衛的精神で鶏林奨業団という団体を組織し、公使の認可を経てやっていたが、いたずらに組織が大きいのみで統率者もその人を得ず、せっかく農商務省からは1万円の補助を貰ったが、ついに有名無実に陥り、何ら功を為すことがなかったのは遺憾の至りで、やり方さえよければ有望の仕事であるのに、今にとかく発達しない有様である。

むむむ。

 

最後の二段落はなかなか興味深いことが書かれてますね。落ちぶれた壮士や無頼の輩が行商人になってると。壮士ってのは自由民権運動の活動家ですね。この人たちは大陸浪人になった人も多いらしい。鶏林奨業団というのはあまり記録がないようですが、次のブログで割と詳しく解説されております。

鶏林奨業団(一) | 獄長日記

韓国の英雄(?)の一人、金九は若かりし頃起こした強盗殺人事件について、閔妃殺害の恨みを晴らしたもので、殺したのは土田讓亮という日本の陸軍中尉だと述べています。この軍というのが鶏林奨業団と措定されてるようですが、土田讓亮は鶏林奨業団とは全く関係のない商人です。

鴟河浦事件 - Wikipedia

金九の知られざる姿とは(上) | Chosun Online | 朝鮮日報

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