満州国4~石原莞爾の中国観の変遷~(石原莞爾5)

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石原莞爾の著作や講演録は満州事変以後のものがほとんどなのですが、事変前の昭和六年五月に「満蒙問題私見」というのを書いています。この時期は満州建国ではなく満州領有を考えていた時期です。何故満州を勢力下に置くべきかということですが、まず既にこのころから既に日米による最終決戦が行われるという思想が前提にあります。北満まで勢力下に置くことによってロシアは南下出来なくなり、初めて安心して南の米英と戦うことが出来る。

 

この満州領有論の時期の石原莞爾は中国人の能力に疑問を持っていて、在満三千万人の共通の敵である軍閥の打倒は日本の使命だと言っています。そしてそれは支那本土の統一を招きそれは欧米の経済にも良いはずだが、嫉妬心の深い欧米諸国はことによっては武力によって反対してくるだろうから、それを覚悟しなくてはいけない。満蒙問題は対支問題ではなく対米問題だと。

 

この他、食料問題、工業問題、失業者問題、朝鮮問題など色々少しずつですが触れられてて面白いのですが、今回は触れず、石原莞爾の対中国観について書きたいと思います。この時期は先程も書いたように中国人の能力に疑問を持っていた。昭和十七年、満州事変から11年後に「満洲建国前夜の心境」というのを書いています。それによると石原の支那問題に対する関心は幼年学校からのものであり、辛亥革命の時には万歳を叫んで喜んだそうです。しかしその後結局軍閥軍閥の抗争で革命の精神は実現せず、中国人の政治能力に疑いを抱くようになった。そこで日本の存立のためだけでなく中国人の幸福のためにも日本が満蒙を領有すべきと強硬に主張した。しかしその後蒋介石による統一が進み、また満州事変の時の満州人、漢民族の日本軍に対する献身的な協力を見て中国人自身による革新政治は可能と考えるようになり領有論から独立建国論に転じた。とのこと。

 

これまでも何回も書いてきたように非常に中国に甘い見方をする石原莞爾も一時期は疑問を持っていたころもあったってことですね。石原莞爾は昭和二十四年(1949)に亡くなってますが、その後の大躍進政策などを見てまた中国観を変えたでしょうか。仮に変えたとして、では日中国交正常化、或いは改革開放路線後はどうでしょうか。

 

姐さんは日本が大陸半島のどうしようもない姿を見て、特に日露戦争後ぐらいからあアジア主義的な機運が高まってきた気がすると言ってました。あれだけ東亜大好き石原莞爾も当時の中国を見て幻滅せざるを得ない状況だったのでしょうが、ちょっとしたことがきっかけでまた中国への期待を持ってしまう。

 

そう考えると、石原莞爾も批判してた他民族蔑視の傾向が見られたことと、アジアの盟主としてアジアを導き解放しなければならないという使命感は表裏一体のものかもしれません。どちらにしても傲慢と取られても仕方ない。衷心からのことというのはあまり関係がない。近代文明を教えてあげたとか、戦後日本に民主主義を根付かせてあげたとかいうアメリカの傲慢さと似てる。

 

こうは言っても僕は戦前の日本を悪意を持ってしか見ない日本人は心の底から軽蔑してますけどね。私が考えているのは過去の失敗を繰り返さず今後に活かそうということだけです。

 

「満蒙問題私見」と「満洲建国前夜の心境」はともに下記のサイトに載っています。

http://www2s.biglobe.ne.jp/t_tajima/nenpyo-5/ad1931b.htm

 

石原莞爾6~昭和維新とアジア主義~ - 王蟲の子供