最近朝鮮事情所感13

最近朝鮮事情所感1 - 王蟲の子供
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明治維新から本書執筆時点までの日朝関係の概略を書いて締めとなります。現在の理解とあまり変わらないかもしれません。なのであまり紹介する意味もないかもしれませんが、長々書いてきた本書の最後の部分なので一部引用しながら要約します。

 

御維新となって新政府は王政復古を伝える国書を送ったが先例と違うとして応じない(書契問題)。幼い朝鮮王に変わって国政を代行する大院君は外国排斥政策を摂っており、日本の官吏の斬髪姿を見て、交際したら惨殺するという布令を出して我が国を退けた。日本では上下みな腹を立て、朝鮮征伐の議論が盛んに起こったが、岩倉右大臣、大久保参議らが欧米から帰ってきて反対した。朝鮮征伐派が下野し佐賀の乱西南戦争に繋がり、大久保も暗殺された。明治8年我が運揚艦が朝鮮の沿岸を計量していた時、攻撃を受けたので応じて戦った(江華島事件)。また征韓論が盛んになったため政府は早く朝鮮と条約を結ぼうと黒田清隆を送った。大院君は容易に聞き入れず決裂寸前だったがようやく屈して日韓修好条約を協定した。これまで朝鮮では守旧党(大院君)と開化党(閔氏)が争っていたが遂に開化党が勝ち、大院君は失脚した。明治15年には開化党の内閣を作り、兵制を改め日本武官に頼んで教師にして練兵をした。

 

そこで失脚派となった旧式兵らは守旧党につくということになり、都提調の職にいる閔謙鎬は旧兵に給米を与えず、たまに与えても禄米に砂石を混ぜて与えたので、旧兵は大いに腹を立て官人を殺したので、旧兵の首謀者を刑罰に処したが、それが一層の騒ぎとなり、閔謙鎬は捕り殺されて、閔王妃も危うい所をようやく逃れたが金壽鉉、李最応、閔昌植ら当局の役人は皆殺され、閔氏一族の邸宅は荒らされ、我が日本公使館も襲撃された。

 

兵を派遣し談判したが開化党内閣が倒れ、大院君が政権を握ったので中々まとまらない。朝鮮が日本に征服されてはいかんと支那も派兵、日朝間の調停をして大院君を捕えて天津に送った。日本と朝鮮は済物浦条約を結んだ。

支那は双方の調停を成功させ、馬建忠を朝鮮政府の顧問にし、兵3000を朝鮮に駐屯させ、朝鮮の政治に干渉しているので、朝鮮はかえって日本を軽蔑するようになった。明治17年支那とフランスが戦いを始め、支那軍艦10隻を沈められ5000人も死んだということで再び日本党の勢力が強くなった。

11月4日京城郵便局の開局祝い。各国公使や朝鮮大官も来ているその晩に、日本党が騒ぎ出して、閔泳翊は怪我をされるやら、宮門は破られるやら、大騒ぎとなって竹添公使もやむなく一中隊の兵を率いて王宮に赴く。王は逃げられる、伊秦駿ら多くの大官は殺されるという始末となり、翌5日に金玉均、朴泳孝らの開化派は守旧派政権を倒してかわって新政府を組織することになったのである。

 

翌6日、大政一新の詔勅を出そうとする所へ、清の袁世凱が国王に謁見を請うても許されないものであるから数100の兵を率いて迫ってきて、王宮を守っている日本兵との打ち合いを始め、国王は恐れて韓兵に守られて清兵のほうにいかれ、彼らは益々勢いを得て清韓領国兵で日本の公使館を襲った。

 (はっきり書いてないので混乱しますが、この時点で閔氏政権は開化派(日本党)から守旧派(事大党)になっていたということ)

クーデターは失敗し政権は事大党の閔氏政権へ戻ったが、日本は井上馨を派遣し京城条約を結ぶ。日清は両国の朝鮮からの撤兵、朝鮮に出兵する際はお互いに通知することを定めた天津条約を結んだ。日清が争っているのを見てロシアは次第に勢力を伸ばしてきた。

(あの風刺画か!)

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この間イギリスの巨文島占領事件があり、また防穀令事件があった。防穀令事件とは明治22年に感鏡道監司・趙秉式が日本に米穀を輸入するのを禁じたので、元山に居る日本商人は40万円も損をしたから、この防穀令の廃止と損害の賠償とを談判したが、当時日本の勢力がなく、その間何人も公使を変わり談判をしたがなかなか聞き入れないで、殆ど決裂となりそうな時に、ようやく大石正巳の時に我が方の要求を容れて条約を結ぶに至ったのである。 

 

それから日本に逃れていた金玉均、朴泳孝を殺そうとして朝鮮の刺客が幾人も来て、遂に金玉均は誘い出されて上海で銃殺され、朴泳孝は東京で危ない目に遭った。幸い暗殺から免れその刺客は縛られたが、これに連なる朝鮮公使・兪箕煥は黙って本国に逃げてしまった。また上海の金玉均の遺骸は日本人が収めて日本に送る途中、上海警察に阻止されて、朝鮮の依頼により軍艦で朝鮮に送った。朝鮮閔族は金玉均を大逆無道の罪として6支の極刑に処し、何日も晒し首にした後、朝鮮8道を引き回して見せるというようなことで、日本人は清韓両国政府のやり方に対し歯がみを見せない者はない有様となった。

 続いて東学党の乱が起こり、日清ともに出兵、日清戦争に至る。(閔氏政権が清国に援軍を要請、日本は天津条約に基づき出兵)

井上公使は改革の方案を立て、大君院を退隠させ、閔妃の干渉を防ぎ、幾たびか勧告の上、金宏集に朴泳孝を加えた連立内閣を作り、政治の改革を図らしたが、井上公使が日本に帰るやたちまち閔妃はロシアのウェーバーと結託し内閣を瓦解させ朴泳孝はまたもや日本に逃げて来るという始末になったから、井上公使は再び朝鮮に向かい、閔族を斥け金宏集を総理に、朴定陽を内務に日本党内閣を組織させた。 

 

ところが三浦梧楼を駐韓公使として派遣し、入れ替わりで井上公使が帰国すると、また閔族一派は日本党を排斥し内閣の更迭を促すと、金宏集らの派は三浦公使を説き孔徳里に隠居している大君院を呼び戻し、大院君は2大隊を率いて日本党と合体し王宮に乱入、閔妃を殺したり手荒なことをやった。

 

日本政府はこれを聞いて驚き、直ちに政務局長・小村壽太郎を送り善後策を講じさせた。三浦公使以下、柴四郎、岡本柳之助らを罪し、井上馨を三度目の朝鮮入りさせた。ところが朝鮮は上の者も下の者も皆日本を危険視してロシアに依頼しようとし、ロシア公使もしきりに日本反対党をそそのかして遂にロシア水兵を京城に入れるに至り、ロシア党は勢いを得て、明治29年の2月には内閣の主なる大臣を殺し、国王や世子らも皆ロシア公使館に赴かれ、死刑やらなにやら気味の悪いことであった。

 ロシアの勢力は盛んになり、朝鮮はほとんどロシア党で固められ、日本の勢力はほとんど皆無になった。ところがロシアの圧力があまりに酷いのでロシアを嫌うものも出てきて、西・ローゼン協定が結ばれ日本の勢力を多少回復した。しかし明治33年の北清事変をきっかけにロシアは満州経営を進め、龍岩浦事件、日露戦争へ至る。朝鮮の外交権を日本に収めて保護国となった。

 

以上でーす。40年ほどのことをまとめてるので、簡単に過ぎますが、まあ大院君や閔氏のコウモリ振りはよく分かりますね。特に日清戦争前後が目まぐるしい。これを責めても仕方ないので、国際政治とはこういうものですよというのを学べればいいんじゃないでしょうか。何度か言及したように、本書の10年ほど前、日清戦争前後のことを書いてあるのがイザベラ・バードの「朝鮮紀行」です。「最近朝鮮事情」よりもまとめて紹介するのは難しいのですが、面白いところだけでもそのうち紹介できればいいなと思ってます。では連載13回、長々とお付き合いいただきありがとうございましたー。

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