最近朝鮮事情所感2

最近朝鮮事情所感1 - 王蟲の子供

 

連載第二回です。まず当時の朝鮮の人口について。

人口は1000万人という。しかし確かな調べは分からないので、800万人という人もいればまた1200万人いるという人もある。外国人は、日本人が4万、支那人が4000人、アメリカ人が200人、イギリス人が100人、そのほか外国人あわせて100人位だという。 

 外国人の人数的には日本人が圧倒してるんですね。これで商売がまだ不十分なら著者が情けなく思うのも分かる気はします。ロシア人があんまいないのは日露戦争後だからでしょうか。或いはあまり人は派遣してなかったのか。少人数で利権だけ手に入れられるならそうすればよかったのにね。暫く後の満州もそうだけど人口問題で移民をしなければいけない理由もあったんでしょうが。ハワイへの移民も有名ですよね。Wikipediaによると1868年から1924年の排日移民法まで約22万人だそうです。黄禍論が盛り上がってからは南米が主になった模様。

ハワイにおける日本人移民 - Wikipedia

【株式会社 ギアリンクス】 南米日本人移民について

 

釜山に上陸して、龍頭山を上って四方の島山を望み、また草梁から汽車に乗って車窓から四方の山々の禿げて木のない所、出水する度に田畑を荒らしている所などを見れば、誰でも朝鮮には山も無く川も無いと思うだろう。

よく言われていることではありますが、治水などの観念はなかったようで。

朝鮮100年の経営を思えば姑息な考えをせずに、まずこの川を作り,川を固めて、川流を完全にし、運輸の便利を十分にし、そして作物の良く出来る土地を安心して作ることの出来るよう、手を入れ物をかけて十分の財産となるようにしたいと思う。

次に山に関してですが、日本の拡張的な感じが書かれていて(引用の終わりの方)、日本に都合に悪い部分はなるべく書くという方針からちょうど良かろうと思うので長めに引用します。この最後のところを省いて引用する人は如何なものかと思うでしょう?

山高きが故に貴からずで、朝鮮の山は殆ど禿山であるから、朝鮮に山無しといっても差し支えない。

 

伐っては使い、取っては焚き、そうしていかに禿げようが全く構わず、植林など更に考えないどころか、我が先と競って伐り取って、どうなるかなど顧みなかったものであるから、それで遂に今日のような哀れな有様になって至る。したがって川にも影響して来た次第であると思われる。 

 

しかしこれは朝鮮ばかり笑われる義理ではない。日本でも近頃非常に無茶伐りし林を絶やすことが盛んであって、一時は至る所禿山が沢山になったのを、幸いに近頃気がついて植林ということが広まって来たのであるが、元々山というものは取るばかりで育てるという考えはなかった。そこで世間の諺にも、「後は野となれ山となれ」というものもあるが、決して山や野はそのように扱うものではない。 

 

悲しいことに朝鮮人はまだ気がつかないから山々は皆禿げているのであろう。そこで山に大雨が降ると水源を保たないから川水ははすぐに氾濫して、濁流が勢いをもって田園を害するのである。 

 

山も無く川も無いとすれば、したがって田園も無い人家も無い、遂には朝鮮も無いということになる。それは極端中の極端の話だが、朝鮮の川は普段でも澄んではいない。大抵赤黒い濁り水で川の底を見るなどめったに出来ない。 

 

もしも日本の力で朝鮮の山を作り、朝鮮の川を作ったなら、そこで田園も出来れば財産も確実になってくる。したがって村も出来れば家も出来る。国も富む。朝鮮も出来る。そうなれば朝鮮は日本がこしらえたので、朝鮮は日本のものになる。

朝鮮は日本のものになる。」

野心満々でいいですねえ。日本の森林保全について気になったのでちょっと調べました。

http://www.rinya.maff.go.jp/j/kikaku/hakusyo/25hakusyo/pdf/6hon1-2.pdf

江戸時代に大都市で木材の需要が増大したことから森林伐採が深刻化し、対策が取られるようになったそうです。明治維新以降同じような状況があったのでしょうね。

 

その後いくつかの山について書かれてますが、朝鮮にも南部はほとんど禿山だが朝鮮全体を見れば良い山もあると書いてある。なんで南部に禿山が多いんでしょうか。

 

その後、朝鮮の城について書かれてます。大して面白くないので省略。

 

次に京城(ソウル)の様子。日本人の関係のあるとこを書くと、日々日本人が増えており、警察、学校、銀行などの機関は皆備わりなかなか盛んだとのこと。

 

次に王宮について。

朝鮮の王宮は3つある。3つとも京城にあって慶運宮、景福宮、昌徳宮というのである。慶運宮は新王城を構え、今の国王の御座所で、また旧王城の慶熙宮を西闕、昌慶宮を東闕と呼ぶ。

(中略)

この景福宮は元々太祖・李成桂の建設で、その後豊公文禄の役に兵火にかかり荒れていたのを興宣大院君が摂政となった時に、朝鮮国中の珍しい木や良い材を人民から献納させて、1000万円の大金をかけて再興したので、朝鮮の王宮としては実に結構壮大で、中々新王城の慶運宮とは比べ物にならない。国王・高宗も元はここに居られたのであるが、かの明治28年10月8日の王妃閔氏暗殺の騒ぎから王はここを嫌い慶運宮に移られたのである。

 閔氏暗殺と関係のあることなので色々書きたいこともあるがこれはまあ別の機会にしましょう。他にも興味深い記述もあるが長くなるので省略。

 

う~ん、意外と長くなりそう。第三回に続きます。

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