倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑪

倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで① - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで② - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで③ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで④ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑤ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑥ - 王蟲の子供

倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑦ - 王蟲の子供 
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑧ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑨ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑩ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑪ - 王蟲の子供

 

11目でーす。本シリーズも最終回となりました。毎度断りますが、倉山満さんの「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んでそれを一部要約して、それをについてあーだこーだ言うかたちですが、今回も細かい政治家の地味な(?)権力闘争が中心で我ながらなかなか自分でまとめててもなかなか頭に入ってきませんし、特にあーだこーだ言うこともなかったりして。。。

3月1日、関東軍は溥儀に満洲国を建国させる。犬養内閣、特に吉澤外相は満洲国不承認の方針。国際連盟では話のわかる英仏と、連盟の権威で大国の軍事行動を封じ込めたい小国の思惑が対立していた。とはいえその小国である東欧諸国は独ソに挟まれ英仏に頼っており、親分たる英仏は小国の顔を立てないわけにはいかない。日本は軍事的勝利をかさに着て外交的に全面勝利を志向することは英仏との決裂を意味する。若い頃からのアジア主義者である犬養は満蒙問題をよく分かっているが、英仏と手切れするに見合う価値はないと判断。 

 なんだかんだありつつも上海事変は5月5日には停戦協定調印。さて犬養内閣の今後は?というところで犬養毅青年将校に暗殺されてしまいます(五・一五事件)。

犬養は言うことを聞かない青年将校30人ほど見せしめに馘首し綱紀粛正を図ろうとするが青年将校らに伝わってしまう。犬養毅暗殺(五一五事件)。世論は青年将校を支持。暗殺を賛美する狂気の時代。

犬養はなんとか軍と抑えていこうとしてたところへの不幸。

憲政の常道」が健在ならば与党後継総裁が総理大臣に就任する。総裁候補は三代派閥領袖、鈴木喜三郎、久原房之助、床次竹二郎。内閣書記官の森恪が素早く動き、鈴木総裁を実現。ところが森恪は鈴木ではなく平沼騏一郎を首相にしようとする。森の見立ては皇道派と手を組み、世の中を善導できる人材として平沼を首班として政友会がそれを支えるというもの。しかし西園寺は平沼も鈴木も嫌ってる。「憲政の常道」があるから鈴木を後継総理に奏薦出来るのに平沼など論外で森には乗れない。鈴木は平沼を通さなくても荒木(皇道派)と同盟できればこちらも森の策にに乗らずともよいので直接荒木ら皇道派接触。しかし荒木らにとっては「憲政の常道」など自分たちを抑えていた軛に過ぎないので乗らない。陸軍の圧力によって西園寺は鈴木首相を諦めたと言われているが、ある意味西園寺には渡りに船。西園寺は多くの実力者と会談を支える。昭和天皇から届けられた覚書には「協力か単独かは等ところにあらず」「ファッショに近き者は絶対に不可なり」。その意味は「憲政の常道」に固執して鈴木を選ばなくてもいい、平沼は絶対不可。結局、斎藤実を後継総理に奏薦。斎藤は二度も朝鮮総督を務め実務経験もあり、海軍なので陸軍に対抗でき、西園寺好みの温厚な紳士だから。「憲政の常道」は自動的に放棄。

この辺はほんと通り一遍の知識では分かりづらいですね。とにかく最終的には西園寺の判断で「憲政の常道」が放棄されることになり斎藤内閣成立。

その場は丸く収まるけれども、根本的な問題をすべて先送りにする、むしろ悪化させるけれども、大半の人が「あのひとはいい人だから」で済ますので、危機を唱える者の正論が通らなくなって破滅する。西園寺公望斎藤実はそういう人。斎藤実内閣で特に問題だったのが、外務大臣を芳澤謙吉を更迭して満鉄総裁の内田康哉にしたこと。辞令後、正式に外相に就任する前の5月28日、リットンに会って「満洲国を認めるしか策はない」と力説。日本と国際連盟の争点は満洲国承認の一点。「形式的に中華民国の主権を認めた上で、実質は日本への委任統治」という妥協案が模索されていた中で、外相就任前にそれを一蹴。

内田外相は長春の在中華民国の領事館を満洲国の総領事館に格上げ。錦州に満洲国の領事館を設置。既成事実を積み上げる。8月25日、焦土演説「国を焦土にしても満州国の権益を譲らない」。8月31日、「いざとなったら、国際連盟脱退を辞さず」と外務省に訓示。英米が敵だからフランスを味方につけようと工作を指示。駐仏大使永岡春一のボヤき「外相の意見には、国内に多数の共鳴者がいた」「英米を無視してフランスと協力ができたからとて、実効性があるのだろうか」。内田は日本史上に残るポピュリスト。

 なんとか満洲国承認問題で国際連盟と折り合いをつけようとしていた芳澤謙吉外交をポピュリストの内田康哉がぶち壊したと。

9月15日、大日本帝国はリットン報告書が発表される前に満洲国を承認。一点の妥協もしたくないという世論に媚びたから。斎藤首相や内田外相は陸軍に媚びた、或いは圧力に押し切られたと語られるが違う。積極的に時流に媚びた。ソ連は「満洲国にいる尉官のモスクワ駐在承認」を表明。事実上満洲国承認。

 政治家が軍部に押し切られたのではなく、世論に媚びたと。

10月1日、リットン調査団が報告書を提出。結論は「満洲国承認以外はすべて日本の権益を認める」。「日本の行動は自衛とは言い難い」とは言ってるが「侵略」とも言っていない。さらには「自衛ではないけれども、1931年9月18日以前に原状復帰するのは好ましくない」とも言い切っている。更に興味深いことに「中華民国は党が国家の上にある」と表現している。つまりリットンは「中華民国がまともな国ではないから、日本を杓子定規に批判してはならない」と戒めている。蒋介石は絶望し涙を呑んで受諾する決意を書き残している。一方日本の新聞などは徹底的に罵倒し、煽られた民衆は激昂。何とか日本を国際的孤立から回避させようと奮闘したのが松岡洋右。10月11日、松岡は国際連盟臨時総会代表に。シベリア鉄道ジュネーブへ。モスクワでまた日ソ不可侵条約をせがまれるが無視。

 この辺は興味深いですが、特にやはりリットン調査団が「中華民国は党が国家の上にある」と表現しているとこですね。松岡洋右国際連盟脱退時の英雄とされたり、日独伊三国同盟の締結などで否定的評価が多いと思いますが、なかなか一面的に理解するのは難しい人ですね。当ブログでも以前松岡洋右の一端を示すエピソードを書きました。

石原莞爾4 東亜・大東亜の範囲 - 王蟲の子供

 

後の時代ならいざしらず、満洲事変でのコミンテルンが優秀だという資料は見たことがない。内田康哉斎藤実ソ連のスパイであってくれと願うが、その証拠は見つけられない。ただのバカ。例えば斎藤実は日露協会会頭として「一日も速に蘇連邦と特に密接なる関係を保持して以て米国の圧迫に対抗し東洋平和の大計を策定すること刻下の緊急時に属すべし」と建言している。そもそも帝国海軍は日露戦争アメリカを仮想敵国としている。陸軍がソ連を仮想敵国としている予算の対抗上。予算のためだが、いざアメリカと戦争するとなって今更騙してましたとは言えないので対米開戦を止められなかった。松岡洋右コミンテルンのスパイ説があるが分からない。11月、アメリカ大統領選挙でフーバーが落選し、ルーズベルトが当選。国務長官のスチムソンに嫌気がさしていた日本人は歓迎ムード。

 この陸海軍の予算合戦が、例えば後に海軍が対米戦争を断れなかった理由とされる所以でもありましょうが、どうなんでしょうね。アメリカは後に日本を地獄に突き落とすルーズベルト大統領就任を歓迎してたんですね。

当時アジアに発言権のある大国は日英米ソ。米ソは国際連盟に参加していない。松岡の出席したジュネーブの連盟総会。争点は国際連盟、ひいてはイギリスのメンツを立てて日本が満洲国承認を撤回するか否か。イギリスのジョン・サイモン外相がリットン報告書の正当性を訴える。最後に松岡の演説。戦前の日本では大好評だが戦後の外交史では低評価。事実はどうか。サイモンは日本と連盟の妥協を探っていたので松岡を歓迎。中華民国はイギリスが敵に回ったと大パニック。駐日イギリス大使フランシス・リンドリーは「日本政府は満洲国独立撤回はしない」と本国に報告するが、サイモンは「日本は満洲国承認はしない」と報告。ここで満洲国承認を撤回していれば亡国の道へは進まなかっただろう。皇道派の荒木、真崎は国際連盟との対決に反対。英米と関係が緊張すると海軍に予算を持っていかれるから。溥儀が熱河が欲しいと言い出す。関東軍はお人好しに申し出を受け入れる。皇道派も積極的に英米とことを構えようとはしてないが、熱河獲得が陸軍の総意になるとそれを進める。1933年元旦、山海関事件をきっかけに熱河侵攻。国際連盟との妥協の努力ぶち壊し。

 ここら辺でもまだ満洲国承認問題折り合いをつける可能性はあったんですね。関東軍は独走しており、皇道派など当時の陸軍上層部はいうほど強硬でないが流されていく。内田康哉外相がビシッとしてれば食い止められらのかもしれませんね。

日本の大多数が狂ったポピュリズムの時代。陸軍は口火を切った主体だが、尻馬に乗ったに過ぎず、もっとも世論に媚びたのが内田康哉で、首相の斎藤実に最も責任がある。世論に逆らえない理由の一つが議会に基礎を置かない内閣であったこと。1月30日ドイツでアドルフ・ヒトラーが首相に。

 ついにアドルフ・ヒトラーの登場。直接本書の内容にはリンクしませんが、こういう世界的状況の中に日本はいたという視点は忘れてはいけませんね。

国際連盟はリットン報告書を42対1で採択。イギリスとカナダは最後まで日本との折衝を重ねる努力。日本の孤立が強調されるが、イギリスを離反に追い込まなければありえなかった数字。現実に棄権と欠席が13票、アメリカはこのころから中南米に対して急に寛容になる。日本の驚異と無関係であろうか。

2月24日、松岡洋右全権、国際連盟脱退を表明。5月31日、塘沽休戦協定により満洲事変終結

 これまでにも書いたように国際連盟での日本の孤立というのは誇大宣伝だったのですかね。

ルーズベルトソ連を国家承認。1940年、イギリスとアメリカがUKS協定を結ぶ。イギリスとアメリカの諜報機関を一緒にしてしまおうというもの。これ以降アメリカはソ連に媚び、イギリスはアメリカに媚び、スターリンの思うままになっていく。しかし満洲事変のころに限ればソ連アメリカも日本に怯えている。満洲国が成立し、北満鉄道を満洲国が買収。ソ連は日本の言うがまま。

松岡は国際連盟脱退は失敗だと感じていた。連盟との和解に必死だった松岡に対し、それをぶち壊すような訓令を発したのは内田康哉。松岡は帰国後代議士を辞め、政党解消運動に没頭。昭和15年、第二次近衛内閣の外相になるまであまり活躍してない。対英協調を基調とする霞が関伝統の外交の信奉者の松岡がその逆を行ったのは皮肉。日独伊ソ四国同盟を構想した松岡にはソ連やドイツのスパイ疑惑がつきまとうが今後の研究に任せる。

 

満洲事変で日本は正論が通らない国になった。大日本帝国が消えて幸せになれたのはスターリンとその徒党だけだったのだから、満洲事変は日本だけでなく世界の不幸の始まり。

正論云々については統帥権干犯問題の時も書いてた。時系列的にはそちらが先。満洲事変でそれが決定的になったということなのでしょうか。

 

 なんとか本書を自分なりに咀嚼しようと努力してみました。

まだまだ咀嚼不足ですが、とりあえず現時点で、2つ疑問点をあげてみます。

1、憲政の常道」は必然的にスキャンダル合戦からの民衆の不信を招くシステムということにはならないだろうか?

2、満洲事変以降の日本が狂ったみたいなことを書いてるが、狂った理由が書かれてない。

 

大きく見て本書で学習したこととしては、戦前の日本について、軍部が悪かったとか、マスコミが世論を煽ったとか色々言われますが、著者はまるで板挟みの被害者かのような政治家たちがしっかりしなかったんじゃないかって視点ですね。

 

本シリーズ、クソつまらなかったと思いますが、読んでくれた人がいたとしたら、本当にありがとうございました。今後もたまにこういうシリーズはあると思いますが、もっと面白くかけるようになればいいと思います。

 

倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで① - 王蟲の子供
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