倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑦

倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで① - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで② - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで③ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで④ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑤ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑥ - 王蟲の子供

倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑦ - 王蟲の子供 
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑧ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑨ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑩ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑪ - 王蟲の子供

7回目でありんすー。毎度断りますが、倉山満さんの「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んでそれを一部要約して、それをについてあーだこーだ言う形です。本書の解説ではありませんので悪しからず。

1929年、日本は浜口雄幸内閣。蔵相井上準之助。金解禁、緊縮財政で経済どん底汚職とスキャンダルによる政党内閣政治への不信、幣原軟弱外交、大不況。

満洲事変前史の国内状況として非常に分かりやすいですね。

1929年、中華民国は対華二十一箇条要求に関わっていた小幡酉吉を駐支公使にするのを拒否。外務省は数々の排日行為よりも、役所組織をお侮られることが許せず。数々の排日行為を処理しない外務省に対して「国家意識が欠如してる」「平和主義への盲信だ」「支那という呼び名を中国に変える前に反日教科書に抗議しろ」などの批判が起きる。今と同じ。

 筆者の言う通り、ほんといつの話やねんって感じですね。支那と言わずに中国と言おうと浜口雄幸内閣が閣議決定したという話は初めて知りました。反日教科書って当時もあったんですね。どういうのなんでしょう。そもそも当時の中国の教育システムってどうなってたのか、想像すらつきません。

 

支那、中国の呼称について、現在の外務省のHPによると1913年に「支那」と呼称するように閣議決定されてるんですね。

 日本政府は当時、条約や国書を除いて中国を「支那」と呼称するとの閣議決定(1913年6月)に基づき、中国に対する呼称として通例、「支那」を使用していました。

(中略)

 こうした中国官民の感情に配慮して、1930年(昭和5年)10月、浜口内閣は常則として「中華民国」との呼称を用いる旨を決定しました。

外務省: 第二次外相時代 幣原外交終焉の時

支那はChinaと同じ語源なんでしょうから漢字文化圏だからこそ起こった問題ですよね。つまらないことで話し合い時間取られるのてだるいでしょうね。。

 

先に進みます。

1930年、海軍軍縮会議。アメリカはフーバー大統領、イギリスはマクドナルド首相というまともな人たち。日本の国是対米7割に対し、69.75%まで認める。日本も概ね歓迎だが、海軍軍令部は不満。

軍令部は何が不満やねん。ということで東郷平八郎老害とか言われる理由のひとつなんでしょうけど。こうして書くとフーバーさんとマクドナルドさんは仲良しさんみたいに見えちゃうかもしれませんが、すぐ後で出て来ますが別に二人の時代が英米が仲良しだったというわけではありません。英米を一体のように考えるのは間違いだと著者は度々書いております。

ロンドン海軍軍縮条約批准は戦前政党内閣の金字塔と言われる。が、軍令部の同意していない条約を結んでくるとは憲法違反だという言いがかりの統帥権干犯問題が起こる。「憲政の常道」が続いて敗戦がなかったら誰も覚えてないような問題だったろう。ロンドン条約批准問題と統帥権干犯問題の本質は正論が愚論に押し潰されていったこと。

1930年浜口雄幸狙撃で重態、その後死亡。憲政の常道では政策の失敗での総辞職のではないので、そのまま民政党若槻礼次郎内閣へ。幣原外交も井上財政も継続。

 憲法問題というと日本国憲法下の近年でも、集団的自衛権の問題とか色々あると言えばありますね。数年前の特定秘密保護法の時の大騒ぎとかもほとんど忘れ去られてますかね。つまり例えば特定秘密保護法が通ったことで安倍首相とかが暗殺されてしまうような感じですかね。

アメリカはフーバー・モラトリアム政策でイギリス潰し。イギリスのマクドナルド首相は与党労働党を追放されるが、保守党・自由党と連立を組み、挙国一致内閣。それを見て日本でも挙国一致内閣をとの声が出てくる。中華民国では汪兆銘が広東政府を作る。張学良は相変わらず満洲でギャングのようなことをしてる。1931年、内田康哉が満鉄総裁として赴任。1930年6月、諜報員が惨殺される中村大尉事件、7月、満洲朝鮮人が中国人農民にいたぶられる万宝山事件。朝鮮半島で中国人排斥運動。チャイナタウン破壊などの暴動。幣原外交への批判が高まる。

先程書いたようにこのようにアメリカとイギリスがいつも仲良しというわけでは全くないと。挙国一致という言葉自体、イコール日本の軍国主義みたいなイメージの日本人がほとんどな気がします。しばらく先のことではありますが、第二次世界大戦ファシズム自由主義みたいなステレオタイプは全く時代状況を無視した見方でしょうね。

 

内田康哉は後に外相になりますが、著者が史上最悪の外相という人です。幣原外交への不満が高まり「満蒙は日本の生命線である」が大流行したところで第二章終了でーす。

 

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