倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑥

倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで① - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで② - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで③ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで④ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑤ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑥ - 王蟲の子供

倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑦ - 王蟲の子供 
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑧ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑨ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑩ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑪ - 王蟲の子供

 

 6回目でーす。毎度断りますが、倉山満さんの「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んでそれを一部要約して、それをについてあーだこーだ言う形です。本書の解説ではありませんので悪しからず。

ワシントン体制の中、日本はデモクラシー、「憲政の常道」を謳歌立憲政友会と立憲民政党の二大政党。民政党の前身、憲政会は加藤高明が外相時代、対華二十一カ条要求を元老に相談せずに決めていたことから元老、特に親中派西園寺公望に嫌われていたため不遇の十年を送っていたが、米英中との協調姿勢を示すため幣原喜重郎を外相にし西園寺へアピール。この加藤高明内閣が「憲政の常道」の始まり。しかし衆議院第一党の総裁が第一党になる「憲政の常道」は政策で行き詰まって総理大臣が政権を投げ出した時は第二党の総裁へ政権が移動するため、汚職やスキャンダルの暴露合戦に明け暮れ、民衆は二大政党への不信を抱くようになる。 

 この辺りの政党政治とか憲政の常道に関しては、保守論客の中では恐らく倉山さんが一番詳しいんじゃないかな?私の知る限り。だから個人的には本書の中で一番勉強になったとこかな。しかしこの「憲政の常道」のシステムは必然的にスキャンダル合戦を引き起こし、民衆の支持を失う構造的欠陥を持つということになるように読めるのだけどどうなんでしょうね。

民政党のスポンサーは三菱財閥、政友会は三井、元老は住友。エスタブリッシュメントの結束という点では三者が一致。中国政策についてのみ幣原外交の民政党が協調外交、政友会が強硬外交。しかし当時は国の体すらなさない小国なのに国運を賭けてまで介入する問題ではないのになぜそんな問題で大日本帝国が滅んだかというのが満洲事変の核心。

このスポンサー関係に関しては後に、金解禁に関するところでも出てきますので一応押さえておいてもいいかも。まあ先に言っちゃうか。金解禁で困ってた三井財閥が政変を起こして再禁止させたという陰謀論です。事実はともかく政党と財閥の癒着が民衆の怒りを買ったようですね。血盟団事件五・一五事件とそれらのテロに対する民衆の同情への伏線と行ったところでしょうか。

中国は不平等条約を日本のように、押し付けられたものでも正規の手続きで変えていこうというのではなく、無理矢理押し付けられたんだから守らなくていいと、「ボイコット」と称して各国へテロ。まずその矛先はイギリスに向かい、1927年には蒋介石の北伐軍がイギリス租界を占拠。イギリスはブチ切れ、日米に共同出兵を打診。幣原喜重郎は拒否。西園寺はこれぞ強硬外交と称賛。南京事件発生。

こういう、法とかの約束事よりも正義みたいな考え方というのは、先程書いた血盟団事件五・一五事件などのテロについては日本人もそうですよね。著者の言う「狂った時代」ですね。なんで狂ったんでしょうね?

 

さて南京事件について出てきました。南京大虐殺」と言われる昭和12年のもの以外に、大正二年と昭和二年にもあります。こちらは中国人が加害者ですが、大正二年のものは今回初めて知りました。っていうか、日本人が虐殺された事件とかいっぱいあるから数え切れないですね。今ぱっと挙げられるのは、甲申事変(1884)、南京事件(1913、1927)、漢口事件(1927)、済南事件(1928)、通州事件(1937)、通化事件(1946)など。甲申事変は有名だけど日本人が虐殺されたことは知られてないだろうし、通化事件は戦後のことだけどこれもほとんど知られてないのでは?

昭和二年(1927年)金融恐慌を機に若槻内閣総辞職田中義一内閣は居留民保護のため三回に渡り山東出兵(1927,1928)。幣原があまりに軟弱で支那人にナメられまくったから。山東出兵を決めた東方会議には吉田茂も参加。吉田茂関東軍や陸軍の武断外交に反対してたと言われるが実際は軍よりも強硬。何故話が逆になるのか。

 吉田茂のことはついでの話ではありますが、一般的には終戦工作による逮捕歴によりGHQの信頼を得たということになってると思います。

日本は居留民保護と権益を守るのに、張作霖蒋介石を天秤にかけ、蒋介石の方がよかろうと、張作霖に北京から引き揚げるよう勧告。米ソはこれにケチをつける。張作霖が日本の勧告に従って満洲に戻る途中、張作霖爆殺事件発生。これについてコミンテルンの謀略説があるが、証拠ない。通説に従えば河本大作が犯人。関東軍総意のものを一人で泥を被った。

田中義一は当初、軍を責任をもって処罰すると言ったが、自身の身内である陸軍かわいさに一年経って結局「厳正な処分はしない」と奏上。田中義一昭和天皇の怒りに恐懼し総辞職。

著者は張作霖爆殺事件のソ連犯行説には消極的なようです。田中義一内閣総辞職の経緯については昭和天皇独白録や去年話題になった拝謁記でも言及がありますが、どこまで信憑性があるんでしょうね。いずれにしても張作霖爆殺事件の対応への昭和天皇の怒りに恐懼して辞職したという経緯自体には特に変わりはないようですね。ちなみに本シリーズでたまに参照する宮脇淳子さんの本では張作霖爆殺事件によって日本は全然得してないことからソ連や張学良も怪しいと書いています。

1928年、張作霖の息子、張学良が「易幟」を宣言し、蒋介石服従。日本政府は中華民国統一に警戒感。外務省は気にしてない様子。奉ソ戦争。ソ連圧勝。この事実をもって張学良は父の仇のソ連に喧嘩を売ったのだとする人がいるが違う。北満州の中東鉄道を回収しようとした。

 蒋介石と手打をして中東鉄道回収の方に力を入れたってことでしょうかね。張学良は生涯を通してやってることがよく分からないですがね。

 

倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで① - 王蟲の子供
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