倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑩

倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで① - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで② - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで③ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで④ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑤ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑥ - 王蟲の子供

倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑦ - 王蟲の子供 
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑧ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑨ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑩ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑪ - 王蟲の子供

 

 

10 目でーす。毎度断りますが、倉山満さんの「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んでそれを一部要約して、それをについてあーだこーだ言う形です。本書の解説ではありませんので悪しからず。

 

ここより第四章に入ります。犬養内閣成立から第一次上海事変終結あたりまで。

1931年(昭和6)12月12日、西園寺が犬養を私邸に呼び出し、「単独で行くか、協力で行くか」と聞く。犬養は「単独」と即答。これをもって西園寺が協力内閣を志向していたとする論者がいるが、もともと「協力内閣」拒否を公言している犬養に決めさせるということは、「憲政の常道」の維持であり、組閣のあり方に元老が押し付けるのがよいのか、次期首相が自分で責任を持つのがよいのかという違い。「協力内閣」運動と安達の造反が「憲政の常道」の規範性を大きく損ねたが、西園寺と犬養の会談は「憲政の常道」を支える儀式。

ところで「戦前は政権交代の後に総選挙で承認を得ているにすぎないから民主的ではない」という人がいるが、戦後も占領期を除き、多数派工作などでなく総選挙で政権交代が起こったのは、自民党から民主党民主党から自民党への、ごく最近の2回しかない。 

 前からの流れでいうと、満洲事変、10月事件などで参ってた若槻内閣は協力内閣を画策する安達内相の造反により総辞職。犬養内閣成立により、憲政の常道は一応保たれたと。

犬養に大命降下し、蔵相は高橋是清に。三井が儲けたのは確かだが餓死者身売りが続出していた東北の人々が救われたのも事実。

倒閣、政権奪還の最大の功労者は民政党安達派を動かした久原房之助幹事長だが、久原の求める安達の入閣の要望に応えず、久原の幹事長留任以外だけ認める。蔵相は余人をもって代えがたい高橋是清。高橋の最側近三土忠造逓信大臣にして高橋に敬意を払う。少数与党ゆえ、近くに選挙があるため内務大臣を三大派閥(鈴木喜三郎、床次竹二郎、久原房之助)が欲しがるが、それを抑え込み派閥色の弱い中橋徳五郎を据える。鈴木は司法大臣、床次は鉄道大臣、久原は幹事長と、それぞれかつて就いたことのあるポストに。外務大臣は芳澤謙吉駐仏大使を呼び戻す。吉澤は英語が苦手な外交官で、これが後に英語が得意な松岡洋右が派遣される遠因になる。吉澤の登用は満洲事変を解決し、協調外交に復そうとするため。陸相荒木貞夫。荒木は宇垣閥を陸軍中枢から一掃。中枢に入った荒木、真崎甚三郎、山岡重厚は「皇道派」と呼ばれ、入れなかった一夕会メンバーが「統制派」を形成し抗争することに。

犬養内閣の人事について色々書いてますが、本書でこの後多く書かれるのは吉澤外相の活躍となります。

12月13日組閣完了。高橋蔵相により景気は好転する一方、対外的には日本の信用は失墜。関東軍は錦州を攻略。日本政府は関東軍を錦州から引かせることで、満州での匪賊討伐権を認められたのにそれをぶち壊す行動。犬養はこれをこれを止めようをし、和平のため蒋介石と話を着けさせるため大陸浪人の萱野長知を南京に贈ろうとするが、陸軍に察知され頓挫。

11月29日に錦州から泣く泣く引き揚げた関東軍はなぜこの時はそれをぶち壊せたのだろうか。もうちょい説明ほしいところ。

軍事的には日本は連戦連勝。12月23日錦州への攻撃開始。荒木陸相は大規模な飛行大隊の投入を許可。満洲事変後、ソ連は極東での備えを強化。帰国中の吉澤にアポをとり「日ソ不可侵条約」を提案。一連の泥縄式行動を見れば、満洲事変がソ連のとっても予想外であったことがわかる。1932年1月3日、関東軍が錦州を占領。

1月7日、アメリカは「満洲での現状変更は認めない」というスチムソン・ドクトリンを発表。イギリスはそれに冷淡、スチムソンはイギリスが極東問題でアメリカと歩調を合わせないという報道にショックを受けたと日記に残している。

このころのソ連スターリンが如何に日本を恐れていたかということ、英米が必ずしも一体ではないことは本書でしばしば書かれていることです。

1月8日、桜田門事件(天皇暗殺未遂事件)。中国国民党機関紙「民国日報」は「不幸にして僅かに福車を炸く」つまり不幸にして日本の天皇を殺せなかったと報じる。過去(1923年)に皇太子暗殺未遂事件(虎ノ門事件)があった時、犬養はそれを理由に山本内閣を総辞職に追い込んでいる。犬養は「修練による心境の変化」とひとこと交わして終了。西園寺は虎ノ門事件の時からテロによる政変を嫌っていたから犬養続投を支持。

1月12日青島で民国日報不敬事件に対する日本人居留民の暴動事件。前年8月18日には青島の国粋会本部が襲撃された事件がある。いずれにしてもそれまではチャイニーズにとっては外国とも言える辺境の出来事だったのが、事変を本土に飛び火させかねなかった。

まあ抗日事件が頻発してたってことっすね。犬養毅は以前の主張と違ってるじゃないかという批判を軽く受け流す。

1月14日、芳澤謙吉帰国。スチムソン・ドクトリンへの回答をしたためる。「支那不統一の現状を酌量されたし」。関東軍が政府の統制を離れて勝手にやるのは困るが、満洲でのチャイニーズの横暴が元凶なのは現地を知っているものなら承知している。実際英仏もアメリカに同調していないし、アメリカでも大騒ぎしているのは国務長官スチムソンだけ。アメリカ国民の関心はリンドバーグ愛児誘拐事件。中国に暮らす欧米人はむしろ関東軍に拍手喝采

関東軍の独走に政府も困ってるが、中国に問題があるのも確かなので、我々が思ってるほど日本が滅亡の縁に追い込まれるほどの状態ではないってことでしょうね。中国に暮らす欧米人のこととか、現地と本国の意識のギャップは常にありますよね。

1月18日、日蓮宗僧侶殺害事件。しかしこの事件があろうがなかろうが日中の衝突は必然。民国日報不敬事件が原因。蒋介石自身がドイツ人顧問のもとの訓練で自信を持ち日本との対決に前のめり。

1月21日、犬養は冒頭解散。景気回復、失業率も下がり始めていたことから政友会圧勝。

細かい事件は色々あるものの日中ともに国民が激昂してるので軍事衝突は避けられなそう。まだまだ日支事変や大東亜戦争と比べると大した戦争じゃないので選挙も普通に行われてると。経済が良ければ選挙に勝つというのは結構な方程式ですね。

民政党は「選挙の神様」と言われた安達謙蔵が「協力内閣」運動で脱党していたので、井上準之助が采配を振るうが。2月9日、テロリスト、血盟団により暗殺。3月には三井財閥総帥の団琢磨暗殺。当時の世論はテロに寛容。狂った時代。

満洲事変を断行した陸軍は世論を支持していたし、大勝した政友会でも大陸での軍事行動を拡大する陸軍の尻馬に乗るしかなく、テロを賛美する風潮にも抗えなくなる。当然諸外国は不安視。

この手のクーデターの標的はあまり理性的な選び方をされてない場合が多いようですが、井上準之助に関しは一応、経済を悪化させたということはありますね。団琢磨も先に書いた三井の陰謀説によりものでしょう。ちょっとはっきり分かりませんが、軍部を中心とした三月事件、十月事件の失敗により、クーデターの主体が民間に移っていったのでしょうか。適当なこと言ってたらすみません。クーデターの主体は違えど、青年将校に対する国民の期待は膨れ上がっていたのでしょう。政権交代しても国内世論と外圧の板挟みは変わらずですね。

 

ここから第一次上海事変です。

民国日報不敬事件、日蓮宗僧侶殺害事件に対する中華民国側の返答がなかなか得られないことから上海は緊迫し、上海共同租界当局が戒厳令を出す。各国軍隊持ち場へ。日本軍移動中に中華民国兵が攻撃を仕掛ける。蒋介石の指導下にあったかは不明。蒋介石の足を引っ張りたいやつはたくさんいるから。アメリカのスチムソン国務長官は警告してきたが、本気で軍事介入する意思も能力も無いのに口先介入だけしても日本は相手にしない。ソ連は日本に不可侵条約を要求しても相手にされないのでフィンランドやポーランなど周辺諸国と不可侵条約を結ぶ。

中国は内輪揉め、アメリカは口だけ。ソ連は必死という相変わらずの流れ。

アメリカは日中関係に不干渉の質をとっていたが裏では蒋介石の軍にテコ入れ。2月上旬ボーイング218型X66Wが上海に届く。元米陸軍航空隊のロバート・ショートと日本の3機の三式艦上戦闘機が2月22日上海上空で日本最初の航空戦。厳密にはアメリカの国際法違反だが、アメリカは「民間人が勝手にやったこと」。日本軍の航空戦力が無敵を誇ったのは昭和12~17年ごろ。このころはまだロバート・ショート1機に3機がかり。

支那事変後のアメリ義勇軍、フライングタイガースは比較的有名ですが、この時にも既にまあ裏でアメリカが蒋介石を支援してたと。どの程度重要なことなのかはよく分かりませんが。

蒋介石にはドイツ人の軍事顧問団がついており、また当時の軍縮で余った世界中の武器が中華民国に流れ込んできていた。少なくとも張学良より手強い軍勢。海軍陸戦隊だけでは太刀打ちできず、海軍大臣大角岑生はプライドを捨て陸軍に協力を依頼。当たり前のようだが支那事変(第二次上海事変)では、同じ状況で海相米内光政は初めは首相や陸相の議論を静観してたのが、身内から犠牲者が二人出た瞬間激昂し、陸戦隊だけえ進撃を開始し、陸軍も強硬策を取らざるを得ず、ついには南京まで進撃し、泥沼の事変の末に配線の憂き目を見た。外相の芳澤謙吉「原因は中華民国の排日行動」など出兵の正当性を訴える。陸海軍に外務省の連携。往年の明治外交では日常的だった後継。何故後の支那事変や大東亜戦争ではやらなくなったのかが謎。

 第一次上海事変の時点では陸軍、海軍、外務省がまだ連携が取れている。何故できなくなったのか謎と書いてありますが、その謎の理由を推測でも説明ほしいところ。

荒木貞夫や真崎甚三郎は「竹槍3千本あればソ連に勝てる」など観念論を振りかざしていたとデマを流されるが、荒木が記者に寛大で放置したから広まった。皇道派はむしろ兵器の近代化に熱心だった。ただしそれを予算不足で高橋是清に拒否され失脚していくがそれは満洲事変が終わった後。皇道派満洲事変の勢いに乗り、国民広報にも力を入れる。従来は新聞が中心だったが荒木陸相時代からは雑誌展開にも積極的に。

 荒木貞夫皇道派の前の宇垣閥はどうだったのか、Wikipediaから引いてみましょう。

宇垣は永田鉄山陸軍省動員課長に据え、地上兵力から4個師団約9万人を削減した。その浮いた予算で、航空機・戦車部隊を新設し、歩兵に軽機関銃重機関銃曲射砲を装備するなど軍の近代化を推し進めた。

永田は、第一次世界大戦の観戦武官として、ヨーロッパ諸国の軍事力のあり方や、物資の生産、資源などを組織的に戦争に集中する総力戦体制を目の当たりにし、日本の軍備や政治・経済体制の遅れを痛感した。宇垣軍縮は軍事予算の縮小を求める世論におされながら、この遅れを挽回しようとするものであった。統制派の考え方はこの流れをくむものである。

皇道派 - Wikipedia

 つまり宇垣閥も皇道派も軍の近代化を目指したものの、宇垣閥は軍縮の中での近代化を目指し、書いてませんが文脈からすると軍拡の中で更に近代化を目指したということでしょうか。まあそう単純化は出来ないんでしょうが、著者の言いたい点としては皇道派も精神論だけじゃないんだよということでしょう。

列強は利権があるので抗議してくるがこの中で一方的に蒋介石に肩入れしてるのはアメリカ(スチムソン)のみ。日本は「軍事行動の自由は担保させてもうらう」と回答するのみ。この間も関東軍ハルビンを占領、2月18日に満洲独立を宣言させる。大日本帝国満洲や上海で何をしても米ソも手出しできない軍事大国。日本は明確な敵であるソ連や原則論を振りかざすアメリカではなくイギリスを仲介者に。停戦協定は5月5日に英国総領事館で調印。上海事変は陸海軍が有利に戦闘を進めて有利に外交を運んだ、日本の軍事的優位が外交的勝利に結びついた最後の戦い。

この後、アメリカのハワイ海軍演習について書いてそこから山本五十六の用兵をボロクソに書いてますが、あまり理解できませんでした。航空機により制空権を握りながら艦隊決戦をすればよかったのに、航空機での戦艦撃沈戦術で行ったので失敗したと。航空機攻撃偏重を批判したいのでしょうが、「ハワイ・マレー沖海戦で米英の戦艦を航空機で沈め」たと書いてるのに、「もちろん航空機による攻撃で戦艦は沈みません。」と書いてるので文章が矛盾してると思います。

 

長くなりましたがまだまだ続きまーす。

 

倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで① - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで② - 王蟲の子供
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