石橋湛山に関するメモ

以前僕が日教組っぽい先生に受けた授業の中で石橋湛山を評価してたことを書きました。

私の受けた反日教育 - 王蟲の子供

その時は戦後彼が総理大臣になった時、病気になってすぐ辞めたのをその前に言ってたことと言行一致で素晴らしいと言っていたんだけど、いまいち彼をそんなに評価する理由が分からなかったんですが、戦前に植民地放棄論を書いている人なのでその繋がりで好きだったのかもしれないなと今になると思います。

 

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石橋はさらに、ワシントン会議直前の1921年に社説「一切を捨つるの覚悟 - 太平洋会議に対する我が態度」を発表し、ワシントン会議の主題が「軍備縮小」であるとともに「植民地問題」でもありうるとの認識を示し、同会議において日本が英米に対し優位に立ち会議で主導権を握る政策とは、軍備縮小の提案と「一切を捨つるの覚悟」であると結論づけた。これは朝鮮・台湾などに「自由」を許容し、満州山東など中国に存在する日本の特殊権益を一切放棄するとの主張を含み、全面的な「植民地放棄論」に到達したものであった。その直後に書かれた社説「大日本主義の幻想」では東アジアにおける大日本主義」の経済的「無価値」を説き、日本の自立にとって植民地が経済的・軍事的に必要であるとする主張に反論している。

また列強が広大な領土・植民地を有しているのに日本のみがそれを棄てよというのは不公平であるとの主張に対しては、たとえば英国インド支配(イギリス領インド帝国)は、英国にとって「大いなる経済的利益」があると評価し、反面、「朝鮮・台湾・樺太ないし満州」は日本にとって経済的利益になっていないと主張した。その上で、日本の発展にとって必要なのは領土よりもむしろ資本であり、経済進出に重点を置くべきであると批判した。その上で、中国・台湾・朝鮮に対し「自由解放」の政策を実施し、より親密な関係を構築するべきと主張した。

このように、石橋の小日本主義は植民地支配そのものの否定ではなかったが、植民地放棄を公然と主張したインパクトは小さくない物があった。

小日本主義 - Wikipedia

朝鮮は植民地ではないとかいう言葉の問題はとりあえず置いておきまして、彼は国益を考えて海外領を手放すべきだという主張ですね。まず経済的観点からイギリスなどがインドから利益を上げているのに対して朝鮮からは利益がないと。そしてその上で軍事的にも必要ないという主張になります。

<軍備を整えることの必要は、「他国を侵略するか」または「他国に侵略せらるる虞れがあるか」この二つの場合以外にはない。侵略の意図もなく、侵略される恐れもないならば、警察以上の兵力は「海陸ともに、絶対に用はない」と湛山は、どんどん軍国主義化への道を選択しっつある日本国民に冷水を浴びせる。
 そして、日本の政治家も軍人も新聞人も、異口同音に、「わが軍備は他国を侵略する目的ではない」という。では他国から侵略される恐れはあるのか。仮想敵国は以前はロシアだといい、いまはアメリカだという。では問うが、いったいアメリカが侵略してきて日本のどこを奪ろうというのか。日本の本土のごときは、ただで遣るといってもだれも貰い手はないであろう。むしろ侵略の恐れのあるとすれば、わが海外領土にたいしてであろう。それよりも何よりも、戦争勃発の危険のもっとも多いのは、中国またはシベリアなのである。
 我が国が支那またはシベリアを自由にしようとする、米国がこれを妨げようとする。あるいは米国が支那またはシベリアに勢力を張ろうとする、我が国がこれをそうさせまいとする。ここに戦争が起これば、起こる。しかしてその結果、我が海外領土や本土も、敵軍に襲わるる危険が起こる。さればもし我が国にして支那またはシベリアを我が縄張りとしようとする野心を棄つるならば、満洲・台湾・朝鮮・樺太等も入用でないという態度に出ずるならば、戦争は絶対に起こらない、したがって我が国が他国から侵さるるということも決してない。論者は、これらの土地を我が領土とし、もしくは我が勢力範囲として置くことが、国防上必要だというが、実はこれらの土地をかくして置き、もしくはかくせんとすればこそ、国防の必要が起こるのである。それらは軍備を必要とする原因であって、軍備の必要から起こった結果ではない。
 しかるに世人は、この原因と結果とを取り違えておる。謂えらく、台湾・支那・朝鮮・シベリア・樺太は、我が国防の垣であると。安(いずくん)ぞ知らん、その垣こそ最も危険な燃え草であるのである。しかして我が国民はこの垣を守るがために、せっせといわゆる消極的国防を整えつつあるのである。吾輩の説くごとく、その垣を棄つるならば、国防も用はない。あるいはいわく、我が国これを棄つれば、他国が代わってこれを取ろうと。しかりあるいはさようのことが起こらぬとも限らぬ。しかし経済的に、既に我が国のしかく執着する必要のない土地ならば、いかなる国がこれを取ろうとも、宜いではないか。しかし事実においては、いかなる国といえども、支那人から支那を、露国人からシベリアを、奪うことは、断じてできない。もし朝鮮・台湾を日本が棄つるとすれば、日本に代わって、これらの国を、朝鮮人から、もしくは台湾人から奪い得る国は、決してない。日本に武力があったればこそ、支那は列強の分割を免れ、極東は平和を維持したのであると人はいう。過去においては、あるいはさようの関係もあったか知れぬ。しかし今はかえってこれに反する。日本に武力あり、極東を我が物顔に振る舞い、支那に対して野心を包蔵するらしく見ゆるので、列強も負けてはいられずと、しきりに支那ないし極東をうかがうのである。>

倉山さんは石橋湛山はまだ帝国主義の枠内であるように語って憲法九条の元祖と見るのはおかしいと語ってますが、まあ状況によって発言は変わってるようです。

憲法と軍隊[編集]

日本国憲法軍隊の在り方を巡る言動は、時代状況によりいくつかの変遷がある。

1946年(昭和21年)3月に「憲法改正草案を評す」で、日本国憲法に関しては憲法九条に該当する草案第二章の戦争放棄を「最早日本は敗戦国でも、四等、五等でもなく、栄誉に輝く世界平和の一等国、予ねて日本に於て唱えられた真実の神国に転ずるものである。之れに勝った痛快事があろうか」と評価した。

だが1950年(昭和25年)頃からは、自衛軍設置の主張や共産・社会主義との対決姿勢(後に自ら廃稿した「第三次世界大戦と世界国家」)を鮮明にし、政治家としても「反吉田」路線に立ち、憲法改正再軍備論者として活動した。同時期には「破局的な第三次世界大戦がいやだというなら、そこ(各国の軍備全廃)まで行かなきゃダメだ」と駄目を押し「その場合は国を亡ぼしてもいいという覚悟をしなければとてもできない」(1952東洋経済新報「問われるままに」)と現実と理想のギャップを示しながら、熟慮・覚悟の伴わない理想論を戒めている。一方で私的に記した日記の中でも、1950年の記述で、「今日の世界に於て無軍備を誇るのは、病気に満ちた社会に於て医薬を排斥する或種の迷信」と非武装中立の主張を公的な発言以上に辛辣に評してもいる。

石橋湛山 - Wikipedia

まあ引用ばかりで内容のないエントリーですが個人的に気になる人なのでメモ代りに。

 

ついでに上の動画の続きで倉山さんが言うには吉野作造が「余は平和主義者である・・・の意味において余は軍国主義者である」と言ってるそうですが、彼らの主張に共感するかどうかはともかく今の日本の左翼と比べれば二人ともかなり現実主義者であったと言えるんでしょう。

 

人は見たいものだけ見るものですね。一応保守も戦前の日本の負の面にも目を瞑らないようにとは付け加えておきます。そのうちその辺についても書きます。