考えを改めるということ

最近ブログを書いていて思うのは、結局やはり僕自身も結論有りきで文章を書いてるんじゃないかなという気がしてしまう。僕なんかは全く何の責任もない一市民ですから偉そうなこと書くだけなら誰でも出来るしね。

 

知り合いの例のチベット女子があらゆる自分の都合の良い記事を探してきてシェアしまくってるのを見て不快になるように、例えば彼女も僕の書いてることとか読んだらそう感じるのかもしれないなと。

 

エッチ君にたまに注意されるのは僕も圧倒的理不尽な現実に直面したことがないから(例えばいきなり強盗に襲われるとかね)空論になりかけるとか。特に僕は一応ブログだけでなく外でも保守活動をして多少なりとも現実的な影響力があるといいなと考えているわけだから、結論有りきで「はいはい、こういう人はこう言うよね」みたいに思われたらもう価値はなくなるだろうし。

 

まあ今日もこんな話をエッチ君としたわけですけどね。前回転向左翼転向右翼について書きましたけど、やはり自分の考えを変えるというのはそれまでの自分の生き方というかアイデンティティーを一部なりといえ変更することであり理屈だけではないからね。エッチ君は会社で人事をやっているのでそういう話を聞けていいんですけど、その自分の中の葛藤の中に更に人に対するそれまでの格好というのもあると思いますね。面子というのかな。今までこういうふうに言ってきたのに今更それを変えるのは面子として退くに退けないというような。ブログをやってる人でもそういうことあると思うんですけどね。

 

例えば保守派の論客の一人に西尾幹二さんがいますが、彼は以前は原発推進派だったけど福島の原発事故以降、段階的に縮小し、最終的に全廃という主張に変えたそうです。そういう態度というのは見習いたいものですね。間違うことは誰でもあるし、そういうのはたとえ主張が違っても敬意に値すると思います。