意外な人脈から見る香港民主派

私の入っている反中共の中国人、台湾人などのLINEグループの中で龍応台という台湾人女性作家、政治家の話題が出て来ました。

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まずこの龍応台というのがどんな人なのか調べましたところ、馬英九政権時代の行政院文化部長だった人で、つまり国民党側の人です。

 

で、このLINEグループとは別の台湾人に聞いたところ

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阿古智子?誰やねんってことで調べたら、香港民主活動家の周庭さんを枝野幸男山本太郎、SEALDsなどに紹介した人のようで、中国の人権弾圧に警鐘を鳴らしている人のようです。

「私たちは、マジで__が大好きなんだぜ! 」 パネルディスカッション パート1: 香港デモと私たち | Peatix

 

なんとも微妙な気持ちになりますね。周庭さんは日本の保守派の福島香織さんや長島昭久さんとも会ってますし、まあ日本の政治のことはよく知らんでしょう。香港民主派は若い人たちが多いこともあるんでしょうが、国際社会全体を見れてるのか不安になります。かつてあれほどトランプを嫌っていた台湾人ですら、トランプ再選を望むようになっているというのに、黄之鋒さんはBLM支持を表明したりしてるようです。

 

 

tw.news.yahoo.com

 

tw.mobi.yahoo.com

中共という点では我々日本の保守勢力と共通しているものの、呉越同舟は成功するのでしょうか。というか立憲民主党やSEALDsって反中共なんですか?そうじゃなかったら彼らは香港民主派を扶けるために誰と戦ってるのでしょうか。詳しい人がいたら教えて下さい。

 

さて次回は、香港民主派についで中国民主派についてお友達の李さんの力を借りて見ていきたいと思います。

中国の民主派事情②

最近の中国と、中国の民主派事情 - 王蟲の子供

 

前回、中国の民主派について語りました。まあ中国の民主派は別に親日とは限りませんよ。ということです。中国本土ではありませんが、去年から有名な香港の周庭さんを見れば理解しやすいのではないかと思います。

 

彼女は反中国共産党であり、親日ではありますが、その親日は例えばK-popが好きな日本人と大差なく、まあ日本が好きなのはありがたいけれど、それだけと言えばそれだけの話なのではないでしょうか。彼女がSEALDsなどと関係が深いとしても、一応日本の保守勢力と会ったりもしてます。とはいえ、彼女が日本の政治勢力図に詳しいわけではないでしょう。もし日本に理解を求めるならば、周庭さんも日本の状況にもっと興味を持って欲しいと思いますが難しいのかな。BLMとかも世界への共感を求めていますが、彼らがそれらの外国の政治情勢に詳しいとはとても思えませんし。しかも周庭さんが日本の政治を理解しようとしたら、一日の長で左翼の方が彼女の信頼は得ていて、こちらとしてはやぶ蛇になるかも?

 

それを踏まえて、さて今、日本への脅威を中国共産党であるとした場合、中国の民主派は敵の敵は味方という意味では味方ですので、色々思うところはあっても積極的に彼らと接近すべきでしょう。

 

しかし何度も言うように反中共の中国人がどういうものなのか、日本人はあまり分かってないようでは心許有りません。例えば先日このようなイベントがあったようです。

 このよく分からない集団、どうやら郭文貴と関係のある組織のようです。中華圏に於いては郭文貴は有名人らしいのですが、日本人はほぼ知りませんよね。アメリカで中共幹部の醜聞を暴露してる人です。ユーチューバーとしても発信しており、なかなか人気があるようで、影響力は大きいようなのですが、どこまで信用できるのか。まあ信用できる人物とは言い難いようですが。興味深い人物ではあり、興味のある人は追っかけてみてはいかがか。

 

しかし上のツイートを見ると日本人も騙されてなくてなかなか心強いですけどね。

最近の中国と、中国の民主派事情

長年の中国ウォッチャーでなくとも、最近の中国の横暴ぶりは多くの日本人の知るところとなったでしょう。香港デモはいかに親中的メディアも突っ込み加減が足りないとは言え報道せざるを得ませんし、ウイグル弾圧もアメリカがあそこまで発言してくれればこれもやはり報道されますね。こう考えると日本の主体性の無さは情けなくなりますが。

 

ここに来て中国は、ウイグル人が自ら進んで不妊手術を受けているとの発言、内モンゴルに於ける言語政策の変更、香港民主派の弾圧強化、比較的関係の悪くなかったヨーロッパにまで、チェコ上院議長の台湾訪問に関しての恫喝で反発を招くなど、もう引くに引けないとこまで言ってる感じですね。

 

中国・内モンゴル、標準語教育に住民反発 同化政策、「文化絶滅」の懸念:時事ドットコム

新疆の不妊手術「自主的」と中国 独研究者の強制批判に反論(共同通信) - Yahoo!ニュース

 

さて、私が話したいのは中国の反共主義者、民主活動家についてです。中国本土ではないですが、香港では周庭さんがすっかり有名になりましたが、中国の民主派にとって日本はどういう存在なのかということです。はっきり言えばかなりどうでもいい存在のようです。じゃあどこが重要かと言えばアメリカですね。日本はアメリカの従属物に過ぎないという。残念ながら、そりゃ彼らからしたら当然そうなるだろうという状態ですね。

 

なので中国の民主派については、昨今増えてきている保守系のネットメディアなどでもほとんど目にすることがないのではないでしょうか。彼らと日本の関係は恐らくどのレベルでもかなり薄いんでしょう。

 

台湾を見てると、反中国(反中共)の人は歴史観なども親日的なのではないかと錯覚を持ちかねませんが、考えてみれば当然のことながら中国の民主派は別に親日とイコールにはなりません。中には中華民国に本土を奪還して欲しいと思ってる人もいますが、それは国民党の中国であり、仮に民主化が達成されたとしても台湾が中国の一部なのは当然じゃないかと思ってたりします。

 

この辺は最近、李さんの計らいで中国の反中共の人たちのグループに参加させていただいたこともあり、直接彼らの考えを知ることが出来、大変ありがたく思っております。

 

さてさて今後の中国はどうなって行くんでしょうか。

中国への政治家の姿

米国務長官 歴代の対中政策失敗 - Yahoo!ニュース

 

最近米中の対立のニュースが目立ちます。とりあえず今は香港の問題で、アングロサクソン5カ国による電子スパイ連合「ファイブアイズ」を中心にまとまっていくのでしょうか。

 

日本も尖閣に中国公船がいつづけることに対して腹たってることも人も多いと思います。日中関係を悪化させたくないという日本の政治家などが日本の中国に対する弱腰の原因なのかもしれませんが、はっきり行って中国の言ってることは言ってるだけのことが多いので批判されても実質そんなにデメリットないのではないかという気がしてきました。

 

中国に強気なことを言えないのならば、なぜ中国にこんな弱腰なのか国民及び世界に発信すべきです。それこそ日支事変に関しても、其の点が欠けてたのが敗因の原因の一つでしょう。

 

日中関係を悪くしたら、中国に進出してる日本企業が被害を被るから強気に出られなくても仕方ないかと私も自分を納得させたたんですが、やはりそれは根本的解決にならないのはもちろん、日本人の怒りのみがたまるという、それこそ戦前の轍を踏んでる気がします。

 

政治家や閣僚は言いづらいこと、言えないこともあるとは思うのですが、国民に対する説明責任をとっていないという自覚はあるのでしょうか。

 

今後日中関係をどうするかはともかく、日本に非はないのでそのことを堂々と世界に発信すればいい。これは民間でなくやはり政府でやるべき。それが出来ない政治家は国民から見下されても仕方ないかなと思います。

 

私は比較的、政治家を批判すればいいみたいなスタンスは嫌いで、出来る限りしないのですが、こういう時に胆力を見せてほしいです。

倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑪

倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで① - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで② - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで③ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで④ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑤ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑥ - 王蟲の子供

倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑦ - 王蟲の子供 
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑧ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑨ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑩ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑪ - 王蟲の子供

 

11目でーす。本シリーズも最終回となりました。毎度断りますが、倉山満さんの「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んでそれを一部要約して、それをについてあーだこーだ言うかたちですが、今回も細かい政治家の地味な(?)権力闘争が中心で我ながらなかなか自分でまとめててもなかなか頭に入ってきませんし、特にあーだこーだ言うこともなかったりして。。。

3月1日、関東軍は溥儀に満洲国を建国させる。犬養内閣、特に吉澤外相は満洲国不承認の方針。国際連盟では話のわかる英仏と、連盟の権威で大国の軍事行動を封じ込めたい小国の思惑が対立していた。とはいえその小国である東欧諸国は独ソに挟まれ英仏に頼っており、親分たる英仏は小国の顔を立てないわけにはいかない。日本は軍事的勝利をかさに着て外交的に全面勝利を志向することは英仏との決裂を意味する。若い頃からのアジア主義者である犬養は満蒙問題をよく分かっているが、英仏と手切れするに見合う価値はないと判断。 

 なんだかんだありつつも上海事変は5月5日には停戦協定調印。さて犬養内閣の今後は?というところで犬養毅青年将校に暗殺されてしまいます(五・一五事件)。

犬養は言うことを聞かない青年将校30人ほど見せしめに馘首し綱紀粛正を図ろうとするが青年将校らに伝わってしまう。犬養毅暗殺(五一五事件)。世論は青年将校を支持。暗殺を賛美する狂気の時代。

犬養はなんとか軍と抑えていこうとしてたところへの不幸。

憲政の常道」が健在ならば与党後継総裁が総理大臣に就任する。総裁候補は三代派閥領袖、鈴木喜三郎、久原房之助、床次竹二郎。内閣書記官の森恪が素早く動き、鈴木総裁を実現。ところが森恪は鈴木ではなく平沼騏一郎を首相にしようとする。森の見立ては皇道派と手を組み、世の中を善導できる人材として平沼を首班として政友会がそれを支えるというもの。しかし西園寺は平沼も鈴木も嫌ってる。「憲政の常道」があるから鈴木を後継総理に奏薦出来るのに平沼など論外で森には乗れない。鈴木は平沼を通さなくても荒木(皇道派)と同盟できればこちらも森の策にに乗らずともよいので直接荒木ら皇道派接触。しかし荒木らにとっては「憲政の常道」など自分たちを抑えていた軛に過ぎないので乗らない。陸軍の圧力によって西園寺は鈴木首相を諦めたと言われているが、ある意味西園寺には渡りに船。西園寺は多くの実力者と会談を支える。昭和天皇から届けられた覚書には「協力か単独かは等ところにあらず」「ファッショに近き者は絶対に不可なり」。その意味は「憲政の常道」に固執して鈴木を選ばなくてもいい、平沼は絶対不可。結局、斎藤実を後継総理に奏薦。斎藤は二度も朝鮮総督を務め実務経験もあり、海軍なので陸軍に対抗でき、西園寺好みの温厚な紳士だから。「憲政の常道」は自動的に放棄。

この辺はほんと通り一遍の知識では分かりづらいですね。とにかく最終的には西園寺の判断で「憲政の常道」が放棄されることになり斎藤内閣成立。

その場は丸く収まるけれども、根本的な問題をすべて先送りにする、むしろ悪化させるけれども、大半の人が「あのひとはいい人だから」で済ますので、危機を唱える者の正論が通らなくなって破滅する。西園寺公望斎藤実はそういう人。斎藤実内閣で特に問題だったのが、外務大臣を芳澤謙吉を更迭して満鉄総裁の内田康哉にしたこと。辞令後、正式に外相に就任する前の5月28日、リットンに会って「満洲国を認めるしか策はない」と力説。日本と国際連盟の争点は満洲国承認の一点。「形式的に中華民国の主権を認めた上で、実質は日本への委任統治」という妥協案が模索されていた中で、外相就任前にそれを一蹴。

内田外相は長春の在中華民国の領事館を満洲国の総領事館に格上げ。錦州に満洲国の領事館を設置。既成事実を積み上げる。8月25日、焦土演説「国を焦土にしても満州国の権益を譲らない」。8月31日、「いざとなったら、国際連盟脱退を辞さず」と外務省に訓示。英米が敵だからフランスを味方につけようと工作を指示。駐仏大使永岡春一のボヤき「外相の意見には、国内に多数の共鳴者がいた」「英米を無視してフランスと協力ができたからとて、実効性があるのだろうか」。内田は日本史上に残るポピュリスト。

 なんとか満洲国承認問題で国際連盟と折り合いをつけようとしていた芳澤謙吉外交をポピュリストの内田康哉がぶち壊したと。

9月15日、大日本帝国はリットン報告書が発表される前に満洲国を承認。一点の妥協もしたくないという世論に媚びたから。斎藤首相や内田外相は陸軍に媚びた、或いは圧力に押し切られたと語られるが違う。積極的に時流に媚びた。ソ連は「満洲国にいる尉官のモスクワ駐在承認」を表明。事実上満洲国承認。

 政治家が軍部に押し切られたのではなく、世論に媚びたと。

10月1日、リットン調査団が報告書を提出。結論は「満洲国承認以外はすべて日本の権益を認める」。「日本の行動は自衛とは言い難い」とは言ってるが「侵略」とも言っていない。さらには「自衛ではないけれども、1931年9月18日以前に原状復帰するのは好ましくない」とも言い切っている。更に興味深いことに「中華民国は党が国家の上にある」と表現している。つまりリットンは「中華民国がまともな国ではないから、日本を杓子定規に批判してはならない」と戒めている。蒋介石は絶望し涙を呑んで受諾する決意を書き残している。一方日本の新聞などは徹底的に罵倒し、煽られた民衆は激昂。何とか日本を国際的孤立から回避させようと奮闘したのが松岡洋右。10月11日、松岡は国際連盟臨時総会代表に。シベリア鉄道ジュネーブへ。モスクワでまた日ソ不可侵条約をせがまれるが無視。

 この辺は興味深いですが、特にやはりリットン調査団が「中華民国は党が国家の上にある」と表現しているとこですね。松岡洋右国際連盟脱退時の英雄とされたり、日独伊三国同盟の締結などで否定的評価が多いと思いますが、なかなか一面的に理解するのは難しい人ですね。当ブログでも以前松岡洋右の一端を示すエピソードを書きました。

石原莞爾4 東亜・大東亜の範囲 - 王蟲の子供

 

後の時代ならいざしらず、満洲事変でのコミンテルンが優秀だという資料は見たことがない。内田康哉斎藤実ソ連のスパイであってくれと願うが、その証拠は見つけられない。ただのバカ。例えば斎藤実は日露協会会頭として「一日も速に蘇連邦と特に密接なる関係を保持して以て米国の圧迫に対抗し東洋平和の大計を策定すること刻下の緊急時に属すべし」と建言している。そもそも帝国海軍は日露戦争アメリカを仮想敵国としている。陸軍がソ連を仮想敵国としている予算の対抗上。予算のためだが、いざアメリカと戦争するとなって今更騙してましたとは言えないので対米開戦を止められなかった。松岡洋右コミンテルンのスパイ説があるが分からない。11月、アメリカ大統領選挙でフーバーが落選し、ルーズベルトが当選。国務長官のスチムソンに嫌気がさしていた日本人は歓迎ムード。

 この陸海軍の予算合戦が、例えば後に海軍が対米戦争を断れなかった理由とされる所以でもありましょうが、どうなんでしょうね。アメリカは後に日本を地獄に突き落とすルーズベルト大統領就任を歓迎してたんですね。

当時アジアに発言権のある大国は日英米ソ。米ソは国際連盟に参加していない。松岡の出席したジュネーブの連盟総会。争点は国際連盟、ひいてはイギリスのメンツを立てて日本が満洲国承認を撤回するか否か。イギリスのジョン・サイモン外相がリットン報告書の正当性を訴える。最後に松岡の演説。戦前の日本では大好評だが戦後の外交史では低評価。事実はどうか。サイモンは日本と連盟の妥協を探っていたので松岡を歓迎。中華民国はイギリスが敵に回ったと大パニック。駐日イギリス大使フランシス・リンドリーは「日本政府は満洲国独立撤回はしない」と本国に報告するが、サイモンは「日本は満洲国承認はしない」と報告。ここで満洲国承認を撤回していれば亡国の道へは進まなかっただろう。皇道派の荒木、真崎は国際連盟との対決に反対。英米と関係が緊張すると海軍に予算を持っていかれるから。溥儀が熱河が欲しいと言い出す。関東軍はお人好しに申し出を受け入れる。皇道派も積極的に英米とことを構えようとはしてないが、熱河獲得が陸軍の総意になるとそれを進める。1933年元旦、山海関事件をきっかけに熱河侵攻。国際連盟との妥協の努力ぶち壊し。

 ここら辺でもまだ満洲国承認問題折り合いをつける可能性はあったんですね。関東軍は独走しており、皇道派など当時の陸軍上層部はいうほど強硬でないが流されていく。内田康哉外相がビシッとしてれば食い止められらのかもしれませんね。

日本の大多数が狂ったポピュリズムの時代。陸軍は口火を切った主体だが、尻馬に乗ったに過ぎず、もっとも世論に媚びたのが内田康哉で、首相の斎藤実に最も責任がある。世論に逆らえない理由の一つが議会に基礎を置かない内閣であったこと。1月30日ドイツでアドルフ・ヒトラーが首相に。

 ついにアドルフ・ヒトラーの登場。直接本書の内容にはリンクしませんが、こういう世界的状況の中に日本はいたという視点は忘れてはいけませんね。

国際連盟はリットン報告書を42対1で採択。イギリスとカナダは最後まで日本との折衝を重ねる努力。日本の孤立が強調されるが、イギリスを離反に追い込まなければありえなかった数字。現実に棄権と欠席が13票、アメリカはこのころから中南米に対して急に寛容になる。日本の驚異と無関係であろうか。

2月24日、松岡洋右全権、国際連盟脱退を表明。5月31日、塘沽休戦協定により満洲事変終結

 これまでにも書いたように国際連盟での日本の孤立というのは誇大宣伝だったのですかね。

ルーズベルトソ連を国家承認。1940年、イギリスとアメリカがUKS協定を結ぶ。イギリスとアメリカの諜報機関を一緒にしてしまおうというもの。これ以降アメリカはソ連に媚び、イギリスはアメリカに媚び、スターリンの思うままになっていく。しかし満洲事変のころに限ればソ連アメリカも日本に怯えている。満洲国が成立し、北満鉄道を満洲国が買収。ソ連は日本の言うがまま。

松岡は国際連盟脱退は失敗だと感じていた。連盟との和解に必死だった松岡に対し、それをぶち壊すような訓令を発したのは内田康哉。松岡は帰国後代議士を辞め、政党解消運動に没頭。昭和15年、第二次近衛内閣の外相になるまであまり活躍してない。対英協調を基調とする霞が関伝統の外交の信奉者の松岡がその逆を行ったのは皮肉。日独伊ソ四国同盟を構想した松岡にはソ連やドイツのスパイ疑惑がつきまとうが今後の研究に任せる。

 

満洲事変で日本は正論が通らない国になった。大日本帝国が消えて幸せになれたのはスターリンとその徒党だけだったのだから、満洲事変は日本だけでなく世界の不幸の始まり。

正論云々については統帥権干犯問題の時も書いてた。時系列的にはそちらが先。満洲事変でそれが決定的になったということなのでしょうか。

 

 なんとか本書を自分なりに咀嚼しようと努力してみました。

まだまだ咀嚼不足ですが、とりあえず現時点で、2つ疑問点をあげてみます。

1、憲政の常道」は必然的にスキャンダル合戦からの民衆の不信を招くシステムということにはならないだろうか?

2、満洲事変以降の日本が狂ったみたいなことを書いてるが、狂った理由が書かれてない。

 

大きく見て本書で学習したこととしては、戦前の日本について、軍部が悪かったとか、マスコミが世論を煽ったとか色々言われますが、著者はまるで板挟みの被害者かのような政治家たちがしっかりしなかったんじゃないかって視点ですね。

 

本シリーズ、クソつまらなかったと思いますが、読んでくれた人がいたとしたら、本当にありがとうございました。今後もたまにこういうシリーズはあると思いますが、もっと面白くかけるようになればいいと思います。

 

倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで① - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで② - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで③ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで④ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑤ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑥ - 王蟲の子供

倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑦ - 王蟲の子供 
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑧ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑨ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑩ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑪ - 王蟲の子供

倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑩

倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで① - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで② - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで③ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで④ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑤ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑥ - 王蟲の子供

倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑦ - 王蟲の子供 
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑧ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑨ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑩ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑪ - 王蟲の子供

 

 

10 目でーす。毎度断りますが、倉山満さんの「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んでそれを一部要約して、それをについてあーだこーだ言う形です。本書の解説ではありませんので悪しからず。

 

ここより第四章に入ります。犬養内閣成立から第一次上海事変終結あたりまで。

1931年(昭和6)12月12日、西園寺が犬養を私邸に呼び出し、「単独で行くか、協力で行くか」と聞く。犬養は「単独」と即答。これをもって西園寺が協力内閣を志向していたとする論者がいるが、もともと「協力内閣」拒否を公言している犬養に決めさせるということは、「憲政の常道」の維持であり、組閣のあり方に元老が押し付けるのがよいのか、次期首相が自分で責任を持つのがよいのかという違い。「協力内閣」運動と安達の造反が「憲政の常道」の規範性を大きく損ねたが、西園寺と犬養の会談は「憲政の常道」を支える儀式。

ところで「戦前は政権交代の後に総選挙で承認を得ているにすぎないから民主的ではない」という人がいるが、戦後も占領期を除き、多数派工作などでなく総選挙で政権交代が起こったのは、自民党から民主党民主党から自民党への、ごく最近の2回しかない。 

 前からの流れでいうと、満洲事変、10月事件などで参ってた若槻内閣は協力内閣を画策する安達内相の造反により総辞職。犬養内閣成立により、憲政の常道は一応保たれたと。

犬養に大命降下し、蔵相は高橋是清に。三井が儲けたのは確かだが餓死者身売りが続出していた東北の人々が救われたのも事実。

倒閣、政権奪還の最大の功労者は民政党安達派を動かした久原房之助幹事長だが、久原の求める安達の入閣の要望に応えず、久原の幹事長留任以外だけ認める。蔵相は余人をもって代えがたい高橋是清。高橋の最側近三土忠造逓信大臣にして高橋に敬意を払う。少数与党ゆえ、近くに選挙があるため内務大臣を三大派閥(鈴木喜三郎、床次竹二郎、久原房之助)が欲しがるが、それを抑え込み派閥色の弱い中橋徳五郎を据える。鈴木は司法大臣、床次は鉄道大臣、久原は幹事長と、それぞれかつて就いたことのあるポストに。外務大臣は芳澤謙吉駐仏大使を呼び戻す。吉澤は英語が苦手な外交官で、これが後に英語が得意な松岡洋右が派遣される遠因になる。吉澤の登用は満洲事変を解決し、協調外交に復そうとするため。陸相荒木貞夫。荒木は宇垣閥を陸軍中枢から一掃。中枢に入った荒木、真崎甚三郎、山岡重厚は「皇道派」と呼ばれ、入れなかった一夕会メンバーが「統制派」を形成し抗争することに。

犬養内閣の人事について色々書いてますが、本書でこの後多く書かれるのは吉澤外相の活躍となります。

12月13日組閣完了。高橋蔵相により景気は好転する一方、対外的には日本の信用は失墜。関東軍は錦州を攻略。日本政府は関東軍を錦州から引かせることで、満州での匪賊討伐権を認められたのにそれをぶち壊す行動。犬養はこれをこれを止めようをし、和平のため蒋介石と話を着けさせるため大陸浪人の萱野長知を南京に贈ろうとするが、陸軍に察知され頓挫。

11月29日に錦州から泣く泣く引き揚げた関東軍はなぜこの時はそれをぶち壊せたのだろうか。もうちょい説明ほしいところ。

軍事的には日本は連戦連勝。12月23日錦州への攻撃開始。荒木陸相は大規模な飛行大隊の投入を許可。満洲事変後、ソ連は極東での備えを強化。帰国中の吉澤にアポをとり「日ソ不可侵条約」を提案。一連の泥縄式行動を見れば、満洲事変がソ連のとっても予想外であったことがわかる。1932年1月3日、関東軍が錦州を占領。

1月7日、アメリカは「満洲での現状変更は認めない」というスチムソン・ドクトリンを発表。イギリスはそれに冷淡、スチムソンはイギリスが極東問題でアメリカと歩調を合わせないという報道にショックを受けたと日記に残している。

このころのソ連スターリンが如何に日本を恐れていたかということ、英米が必ずしも一体ではないことは本書でしばしば書かれていることです。

1月8日、桜田門事件(天皇暗殺未遂事件)。中国国民党機関紙「民国日報」は「不幸にして僅かに福車を炸く」つまり不幸にして日本の天皇を殺せなかったと報じる。過去(1923年)に皇太子暗殺未遂事件(虎ノ門事件)があった時、犬養はそれを理由に山本内閣を総辞職に追い込んでいる。犬養は「修練による心境の変化」とひとこと交わして終了。西園寺は虎ノ門事件の時からテロによる政変を嫌っていたから犬養続投を支持。

1月12日青島で民国日報不敬事件に対する日本人居留民の暴動事件。前年8月18日には青島の国粋会本部が襲撃された事件がある。いずれにしてもそれまではチャイニーズにとっては外国とも言える辺境の出来事だったのが、事変を本土に飛び火させかねなかった。

まあ抗日事件が頻発してたってことっすね。犬養毅は以前の主張と違ってるじゃないかという批判を軽く受け流す。

1月14日、芳澤謙吉帰国。スチムソン・ドクトリンへの回答をしたためる。「支那不統一の現状を酌量されたし」。関東軍が政府の統制を離れて勝手にやるのは困るが、満洲でのチャイニーズの横暴が元凶なのは現地を知っているものなら承知している。実際英仏もアメリカに同調していないし、アメリカでも大騒ぎしているのは国務長官スチムソンだけ。アメリカ国民の関心はリンドバーグ愛児誘拐事件。中国に暮らす欧米人はむしろ関東軍に拍手喝采

関東軍の独走に政府も困ってるが、中国に問題があるのも確かなので、我々が思ってるほど日本が滅亡の縁に追い込まれるほどの状態ではないってことでしょうね。中国に暮らす欧米人のこととか、現地と本国の意識のギャップは常にありますよね。

1月18日、日蓮宗僧侶殺害事件。しかしこの事件があろうがなかろうが日中の衝突は必然。民国日報不敬事件が原因。蒋介石自身がドイツ人顧問のもとの訓練で自信を持ち日本との対決に前のめり。

1月21日、犬養は冒頭解散。景気回復、失業率も下がり始めていたことから政友会圧勝。

細かい事件は色々あるものの日中ともに国民が激昂してるので軍事衝突は避けられなそう。まだまだ日支事変や大東亜戦争と比べると大した戦争じゃないので選挙も普通に行われてると。経済が良ければ選挙に勝つというのは結構な方程式ですね。

民政党は「選挙の神様」と言われた安達謙蔵が「協力内閣」運動で脱党していたので、井上準之助が采配を振るうが。2月9日、テロリスト、血盟団により暗殺。3月には三井財閥総帥の団琢磨暗殺。当時の世論はテロに寛容。狂った時代。

満洲事変を断行した陸軍は世論を支持していたし、大勝した政友会でも大陸での軍事行動を拡大する陸軍の尻馬に乗るしかなく、テロを賛美する風潮にも抗えなくなる。当然諸外国は不安視。

この手のクーデターの標的はあまり理性的な選び方をされてない場合が多いようですが、井上準之助に関しは一応、経済を悪化させたということはありますね。団琢磨も先に書いた三井の陰謀説によりものでしょう。ちょっとはっきり分かりませんが、軍部を中心とした三月事件、十月事件の失敗により、クーデターの主体が民間に移っていったのでしょうか。適当なこと言ってたらすみません。クーデターの主体は違えど、青年将校に対する国民の期待は膨れ上がっていたのでしょう。政権交代しても国内世論と外圧の板挟みは変わらずですね。

 

ここから第一次上海事変です。

民国日報不敬事件、日蓮宗僧侶殺害事件に対する中華民国側の返答がなかなか得られないことから上海は緊迫し、上海共同租界当局が戒厳令を出す。各国軍隊持ち場へ。日本軍移動中に中華民国兵が攻撃を仕掛ける。蒋介石の指導下にあったかは不明。蒋介石の足を引っ張りたいやつはたくさんいるから。アメリカのスチムソン国務長官は警告してきたが、本気で軍事介入する意思も能力も無いのに口先介入だけしても日本は相手にしない。ソ連は日本に不可侵条約を要求しても相手にされないのでフィンランドやポーランなど周辺諸国と不可侵条約を結ぶ。

中国は内輪揉め、アメリカは口だけ。ソ連は必死という相変わらずの流れ。

アメリカは日中関係に不干渉の質をとっていたが裏では蒋介石の軍にテコ入れ。2月上旬ボーイング218型X66Wが上海に届く。元米陸軍航空隊のロバート・ショートと日本の3機の三式艦上戦闘機が2月22日上海上空で日本最初の航空戦。厳密にはアメリカの国際法違反だが、アメリカは「民間人が勝手にやったこと」。日本軍の航空戦力が無敵を誇ったのは昭和12~17年ごろ。このころはまだロバート・ショート1機に3機がかり。

支那事変後のアメリ義勇軍、フライングタイガースは比較的有名ですが、この時にも既にまあ裏でアメリカが蒋介石を支援してたと。どの程度重要なことなのかはよく分かりませんが。

蒋介石にはドイツ人の軍事顧問団がついており、また当時の軍縮で余った世界中の武器が中華民国に流れ込んできていた。少なくとも張学良より手強い軍勢。海軍陸戦隊だけでは太刀打ちできず、海軍大臣大角岑生はプライドを捨て陸軍に協力を依頼。当たり前のようだが支那事変(第二次上海事変)では、同じ状況で海相米内光政は初めは首相や陸相の議論を静観してたのが、身内から犠牲者が二人出た瞬間激昂し、陸戦隊だけえ進撃を開始し、陸軍も強硬策を取らざるを得ず、ついには南京まで進撃し、泥沼の事変の末に配線の憂き目を見た。外相の芳澤謙吉「原因は中華民国の排日行動」など出兵の正当性を訴える。陸海軍に外務省の連携。往年の明治外交では日常的だった後継。何故後の支那事変や大東亜戦争ではやらなくなったのかが謎。

 第一次上海事変の時点では陸軍、海軍、外務省がまだ連携が取れている。何故できなくなったのか謎と書いてありますが、その謎の理由を推測でも説明ほしいところ。

荒木貞夫や真崎甚三郎は「竹槍3千本あればソ連に勝てる」など観念論を振りかざしていたとデマを流されるが、荒木が記者に寛大で放置したから広まった。皇道派はむしろ兵器の近代化に熱心だった。ただしそれを予算不足で高橋是清に拒否され失脚していくがそれは満洲事変が終わった後。皇道派満洲事変の勢いに乗り、国民広報にも力を入れる。従来は新聞が中心だったが荒木陸相時代からは雑誌展開にも積極的に。

 荒木貞夫皇道派の前の宇垣閥はどうだったのか、Wikipediaから引いてみましょう。

宇垣は永田鉄山陸軍省動員課長に据え、地上兵力から4個師団約9万人を削減した。その浮いた予算で、航空機・戦車部隊を新設し、歩兵に軽機関銃重機関銃曲射砲を装備するなど軍の近代化を推し進めた。

永田は、第一次世界大戦の観戦武官として、ヨーロッパ諸国の軍事力のあり方や、物資の生産、資源などを組織的に戦争に集中する総力戦体制を目の当たりにし、日本の軍備や政治・経済体制の遅れを痛感した。宇垣軍縮は軍事予算の縮小を求める世論におされながら、この遅れを挽回しようとするものであった。統制派の考え方はこの流れをくむものである。

皇道派 - Wikipedia

 つまり宇垣閥も皇道派も軍の近代化を目指したものの、宇垣閥は軍縮の中での近代化を目指し、書いてませんが文脈からすると軍拡の中で更に近代化を目指したということでしょうか。まあそう単純化は出来ないんでしょうが、著者の言いたい点としては皇道派も精神論だけじゃないんだよということでしょう。

列強は利権があるので抗議してくるがこの中で一方的に蒋介石に肩入れしてるのはアメリカ(スチムソン)のみ。日本は「軍事行動の自由は担保させてもうらう」と回答するのみ。この間も関東軍ハルビンを占領、2月18日に満洲独立を宣言させる。大日本帝国満洲や上海で何をしても米ソも手出しできない軍事大国。日本は明確な敵であるソ連や原則論を振りかざすアメリカではなくイギリスを仲介者に。停戦協定は5月5日に英国総領事館で調印。上海事変は陸海軍が有利に戦闘を進めて有利に外交を運んだ、日本の軍事的優位が外交的勝利に結びついた最後の戦い。

この後、アメリカのハワイ海軍演習について書いてそこから山本五十六の用兵をボロクソに書いてますが、あまり理解できませんでした。航空機により制空権を握りながら艦隊決戦をすればよかったのに、航空機での戦艦撃沈戦術で行ったので失敗したと。航空機攻撃偏重を批判したいのでしょうが、「ハワイ・マレー沖海戦で米英の戦艦を航空機で沈め」たと書いてるのに、「もちろん航空機による攻撃で戦艦は沈みません。」と書いてるので文章が矛盾してると思います。

 

長くなりましたがまだまだ続きまーす。

 

倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで① - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで② - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで③ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで④ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑤ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑥ - 王蟲の子供

倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑦ - 王蟲の子供 
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑧ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑨ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑩ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑪ - 王蟲の子供

倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑨

倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで① - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで② - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで③ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで④ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑤ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑥ - 王蟲の子供

倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑦ - 王蟲の子供 
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑧ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑨ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑩ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑪ - 王蟲の子供

 

 9 目でーす。毎度断りますが、倉山満さんの「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んでそれを一部要約して、それをについてあーだこーだ言う形です。本書の解説ではありませんので悪しからず。

 

それにしても今回も倉山さんの独擅場で、私としては「そうなんだったんだ。へー。」みたいな感じしかないので、ほとんど自分の意見は書いてません。まあそちらの方がいいという話もありますが。

チェコポーランドなどの小国は、国際連盟を使って日本を抑え込むことが、ソ連や将来復活するドイツからの脅威に対するモデルケースになると考え中華民国の味方へ。日本政府は国際世論と関東軍の板挟みに。

小国のスタイル。こういう力学も面白いですね。

若槻首相はノイローゼ、安達内相のが二大政党による「協力内閣」を提案。これは与党第一党の総裁と野党第一党の総裁の二人だけが総理大臣候補である「憲政の常道」の放棄を意味する。優柔不断な若槻首相は重臣に相談に回り、これが重臣ブロックを排撃する右翼に利用される。天皇自身すら誹謗中傷の対象となるビラまで撒かれる。これに対して西園寺公望は「陸軍にアカがいる」と決めつけるが、当たらずとも遠からず。橋本欣五郎などの資金源はソ連に行き着く。(三田村武夫大東亜戦争スターリンの謀略』)

 戦前の右翼は(戦後も?)左翼にそっくりだったり、結果日本に仇なしてることが多いので、どこまでソ連とかの関与があるのか判断が難しいですね。将来的にもどこまで明らかになるのか。。。

二大政党による「協力内閣」に対して、政党政治家以外を首班とする工作を「挙国一致内閣」と称することもあるが、「憲政の常道」を放棄する点では同じ。きっかけこそ満洲事変だったかもしれないが政治家自身が放棄した。

関東軍の暴走とか、外国の干渉とかいろいろあったかもしれないが、政治家がだらしなかったんじゃねえの?ってことでしょうか。

かつての通説では安達が主導した「協力内閣」運動は、軍部に媚び「憲政の常道」を破壊した陰謀にすぎないというもの。それに対して異を唱え、「協力内閣」とは別の、宇垣一成朝鮮総督を首班とする「挙国一致内閣」構想は軍部を掣肘出来たはずだとの説が今の通説。旧通説のほうが正しいように思える。

二つの説が必ずしも二律背反ではない気がするがちょっとよく分かりませんでした。いずれにしても、著者は同意しかねるが現在の通説では宇垣内閣が発足してたらうまくいってたんじゃないかってことなんででしょうか。ここらは私の読解力不足のためよく分かりませんでした。ちなみに本書では「協力内閣」と「挙国一致内閣」を明確に区別してますが、区別せずに使われることも多いようです。

井上準之助が「協力内閣」反対の旗幟を鮮明にすると民政党のほとんどは「協力内閣」運動に背を向ける。弱気だった若槻首相、幣原外相も、井上準之助指導力で立ち直っていく。若槻内閣は「国際社会の信用を取り戻すために関東軍を統制する」で一致。外国は外相の幣原が抑える。関東軍参謀総長の金谷範三が抑える。関東軍は錦州城を前にして泣く泣く引き上げる。当事者能力を取り戻した若槻内閣に、英仏、国際連盟の小国、連盟非加盟国のアメリカも信頼を寄せる。リットン調査団を受け入れる代わりに満州における匪賊討伐権を認められる。

通説では日本の惨敗だが実際は大勝利。当時の人は分かってたので報道に沸き返る。井上準之助指導力関東軍の独走を押し返す。

柳条湖事件が9月18日、国際連盟での巻き返しが12月10日です。

安達謙蔵内相の側近、民政党顧問の富田幸次郎が、政友会幹事長、久原房之助と「協力内閣」樹立の覚書を交わし、12月10日に首相官邸に突き付け履行を迫る。若槻は拒否し、首謀者安達を問い質す。休憩中に安達は家に帰り引きこもり。当時は大臣が一人でも造反したら総辞職をしなければいけない時代。しかし慣習法に過ぎず、安達を罷免すればよかった。翌11日若槻内閣総辞職

ジュネーブからの第一報は10日朝、11日の午後の新聞には「日本外交大勝利」の文字が踊っていた。一日ずれていれば政変にならなかったかもしれない。

西園寺公望は若槻民政党内閣続投か、犬養毅政友会内閣に政権交代か悩む。「陰謀による政権交代は認めない」と「政策の行き詰まりには政権交代」。今回はどちらの解釈が正しいのかが、元老に委ねられた。世間はどう見てたか。新聞は閣僚全員の辞表提出を聞いて政権移行を当然と書き立てる。結局犬養毅に大命降下。

この政変は三井の陰謀との説がある。井上準之助の金解禁に三井は困っていた。真相は別にして西園寺の判断基準にはなった。

 安達内相により始められた政変の説明ですね。この政変を陰謀とすれば民政党内閣続投。政策の失敗とすれば政友会への政権移動。安達が覚書を突きつけるのが一日遅ければ世論が味方して辞表出すことなかったかもってことですね。

三井の陰謀説については本シリーズ⑥でも説明しました。

いずれにしても、著者は多くの優柔不断の政治家の責任が大きいと思っているようで、それに比し、井上準之助の芯の強さを大きく評価しているようです。金解禁という大失敗にも関わらず、です。

 

さて大命降下した犬養内閣、関東軍の動向はどう進んでいくのでしょうか?!

 

倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで① - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで② - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで③ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで④ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑤ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑥ - 王蟲の子供

倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑦ - 王蟲の子供 
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