倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑪

倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで① - 王蟲の子供
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倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑦ - 王蟲の子供 
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倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑪ - 王蟲の子供

 

11目でーす。本シリーズも最終回となりました。毎度断りますが、倉山満さんの「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んでそれを一部要約して、それをについてあーだこーだ言うかたちですが、今回も細かい政治家の地味な(?)権力闘争が中心で我ながらなかなか自分でまとめててもなかなか頭に入ってきませんし、特にあーだこーだ言うこともなかったりして。。。

3月1日、関東軍は溥儀に満洲国を建国させる。犬養内閣、特に吉澤外相は満洲国不承認の方針。国際連盟では話のわかる英仏と、連盟の権威で大国の軍事行動を封じ込めたい小国の思惑が対立していた。とはいえその小国である東欧諸国は独ソに挟まれ英仏に頼っており、親分たる英仏は小国の顔を立てないわけにはいかない。日本は軍事的勝利をかさに着て外交的に全面勝利を志向することは英仏との決裂を意味する。若い頃からのアジア主義者である犬養は満蒙問題をよく分かっているが、英仏と手切れするに見合う価値はないと判断。 

 なんだかんだありつつも上海事変は5月5日には停戦協定調印。さて犬養内閣の今後は?というところで犬養毅青年将校に暗殺されてしまいます(五・一五事件)。

犬養は言うことを聞かない青年将校30人ほど見せしめに馘首し綱紀粛正を図ろうとするが青年将校らに伝わってしまう。犬養毅暗殺(五一五事件)。世論は青年将校を支持。暗殺を賛美する狂気の時代。

犬養はなんとか軍と抑えていこうとしてたところへの不幸。

憲政の常道」が健在ならば与党後継総裁が総理大臣に就任する。総裁候補は三代派閥領袖、鈴木喜三郎、久原房之助、床次竹二郎。内閣書記官の森恪が素早く動き、鈴木総裁を実現。ところが森恪は鈴木ではなく平沼騏一郎を首相にしようとする。森の見立ては皇道派と手を組み、世の中を善導できる人材として平沼を首班として政友会がそれを支えるというもの。しかし西園寺は平沼も鈴木も嫌ってる。「憲政の常道」があるから鈴木を後継総理に奏薦出来るのに平沼など論外で森には乗れない。鈴木は平沼を通さなくても荒木(皇道派)と同盟できればこちらも森の策にに乗らずともよいので直接荒木ら皇道派接触。しかし荒木らにとっては「憲政の常道」など自分たちを抑えていた軛に過ぎないので乗らない。陸軍の圧力によって西園寺は鈴木首相を諦めたと言われているが、ある意味西園寺には渡りに船。西園寺は多くの実力者と会談を支える。昭和天皇から届けられた覚書には「協力か単独かは等ところにあらず」「ファッショに近き者は絶対に不可なり」。その意味は「憲政の常道」に固執して鈴木を選ばなくてもいい、平沼は絶対不可。結局、斎藤実を後継総理に奏薦。斎藤は二度も朝鮮総督を務め実務経験もあり、海軍なので陸軍に対抗でき、西園寺好みの温厚な紳士だから。「憲政の常道」は自動的に放棄。

この辺はほんと通り一遍の知識では分かりづらいですね。とにかく最終的には西園寺の判断で「憲政の常道」が放棄されることになり斎藤内閣成立。

その場は丸く収まるけれども、根本的な問題をすべて先送りにする、むしろ悪化させるけれども、大半の人が「あのひとはいい人だから」で済ますので、危機を唱える者の正論が通らなくなって破滅する。西園寺公望斎藤実はそういう人。斎藤実内閣で特に問題だったのが、外務大臣を芳澤謙吉を更迭して満鉄総裁の内田康哉にしたこと。辞令後、正式に外相に就任する前の5月28日、リットンに会って「満洲国を認めるしか策はない」と力説。日本と国際連盟の争点は満洲国承認の一点。「形式的に中華民国の主権を認めた上で、実質は日本への委任統治」という妥協案が模索されていた中で、外相就任前にそれを一蹴。

内田外相は長春の在中華民国の領事館を満洲国の総領事館に格上げ。錦州に満洲国の領事館を設置。既成事実を積み上げる。8月25日、焦土演説「国を焦土にしても満州国の権益を譲らない」。8月31日、「いざとなったら、国際連盟脱退を辞さず」と外務省に訓示。英米が敵だからフランスを味方につけようと工作を指示。駐仏大使永岡春一のボヤき「外相の意見には、国内に多数の共鳴者がいた」「英米を無視してフランスと協力ができたからとて、実効性があるのだろうか」。内田は日本史上に残るポピュリスト。

 なんとか満洲国承認問題で国際連盟と折り合いをつけようとしていた芳澤謙吉外交をポピュリストの内田康哉がぶち壊したと。

9月15日、大日本帝国はリットン報告書が発表される前に満洲国を承認。一点の妥協もしたくないという世論に媚びたから。斎藤首相や内田外相は陸軍に媚びた、或いは圧力に押し切られたと語られるが違う。積極的に時流に媚びた。ソ連は「満洲国にいる尉官のモスクワ駐在承認」を表明。事実上満洲国承認。

 政治家が軍部に押し切られたのではなく、世論に媚びたと。

10月1日、リットン調査団が報告書を提出。結論は「満洲国承認以外はすべて日本の権益を認める」。「日本の行動は自衛とは言い難い」とは言ってるが「侵略」とも言っていない。さらには「自衛ではないけれども、1931年9月18日以前に原状復帰するのは好ましくない」とも言い切っている。更に興味深いことに「中華民国は党が国家の上にある」と表現している。つまりリットンは「中華民国がまともな国ではないから、日本を杓子定規に批判してはならない」と戒めている。蒋介石は絶望し涙を呑んで受諾する決意を書き残している。一方日本の新聞などは徹底的に罵倒し、煽られた民衆は激昂。何とか日本を国際的孤立から回避させようと奮闘したのが松岡洋右。10月11日、松岡は国際連盟臨時総会代表に。シベリア鉄道ジュネーブへ。モスクワでまた日ソ不可侵条約をせがまれるが無視。

 この辺は興味深いですが、特にやはりリットン調査団が「中華民国は党が国家の上にある」と表現しているとこですね。松岡洋右国際連盟脱退時の英雄とされたり、日独伊三国同盟の締結などで否定的評価が多いと思いますが、なかなか一面的に理解するのは難しい人ですね。当ブログでも以前松岡洋右の一端を示すエピソードを書きました。

石原莞爾4 東亜・大東亜の範囲 - 王蟲の子供

 

後の時代ならいざしらず、満洲事変でのコミンテルンが優秀だという資料は見たことがない。内田康哉斎藤実ソ連のスパイであってくれと願うが、その証拠は見つけられない。ただのバカ。例えば斎藤実は日露協会会頭として「一日も速に蘇連邦と特に密接なる関係を保持して以て米国の圧迫に対抗し東洋平和の大計を策定すること刻下の緊急時に属すべし」と建言している。そもそも帝国海軍は日露戦争アメリカを仮想敵国としている。陸軍がソ連を仮想敵国としている予算の対抗上。予算のためだが、いざアメリカと戦争するとなって今更騙してましたとは言えないので対米開戦を止められなかった。松岡洋右コミンテルンのスパイ説があるが分からない。11月、アメリカ大統領選挙でフーバーが落選し、ルーズベルトが当選。国務長官のスチムソンに嫌気がさしていた日本人は歓迎ムード。

 この陸海軍の予算合戦が、例えば後に海軍が対米戦争を断れなかった理由とされる所以でもありましょうが、どうなんでしょうね。アメリカは後に日本を地獄に突き落とすルーズベルト大統領就任を歓迎してたんですね。

当時アジアに発言権のある大国は日英米ソ。米ソは国際連盟に参加していない。松岡の出席したジュネーブの連盟総会。争点は国際連盟、ひいてはイギリスのメンツを立てて日本が満洲国承認を撤回するか否か。イギリスのジョン・サイモン外相がリットン報告書の正当性を訴える。最後に松岡の演説。戦前の日本では大好評だが戦後の外交史では低評価。事実はどうか。サイモンは日本と連盟の妥協を探っていたので松岡を歓迎。中華民国はイギリスが敵に回ったと大パニック。駐日イギリス大使フランシス・リンドリーは「日本政府は満洲国独立撤回はしない」と本国に報告するが、サイモンは「日本は満洲国承認はしない」と報告。ここで満洲国承認を撤回していれば亡国の道へは進まなかっただろう。皇道派の荒木、真崎は国際連盟との対決に反対。英米と関係が緊張すると海軍に予算を持っていかれるから。溥儀が熱河が欲しいと言い出す。関東軍はお人好しに申し出を受け入れる。皇道派も積極的に英米とことを構えようとはしてないが、熱河獲得が陸軍の総意になるとそれを進める。1933年元旦、山海関事件をきっかけに熱河侵攻。国際連盟との妥協の努力ぶち壊し。

 ここら辺でもまだ満洲国承認問題折り合いをつける可能性はあったんですね。関東軍は独走しており、皇道派など当時の陸軍上層部はいうほど強硬でないが流されていく。内田康哉外相がビシッとしてれば食い止められらのかもしれませんね。

日本の大多数が狂ったポピュリズムの時代。陸軍は口火を切った主体だが、尻馬に乗ったに過ぎず、もっとも世論に媚びたのが内田康哉で、首相の斎藤実に最も責任がある。世論に逆らえない理由の一つが議会に基礎を置かない内閣であったこと。1月30日ドイツでアドルフ・ヒトラーが首相に。

 ついにアドルフ・ヒトラーの登場。直接本書の内容にはリンクしませんが、こういう世界的状況の中に日本はいたという視点は忘れてはいけませんね。

国際連盟はリットン報告書を42対1で採択。イギリスとカナダは最後まで日本との折衝を重ねる努力。日本の孤立が強調されるが、イギリスを離反に追い込まなければありえなかった数字。現実に棄権と欠席が13票、アメリカはこのころから中南米に対して急に寛容になる。日本の驚異と無関係であろうか。

2月24日、松岡洋右全権、国際連盟脱退を表明。5月31日、塘沽休戦協定により満洲事変終結

 これまでにも書いたように国際連盟での日本の孤立というのは誇大宣伝だったのですかね。

ルーズベルトソ連を国家承認。1940年、イギリスとアメリカがUKS協定を結ぶ。イギリスとアメリカの諜報機関を一緒にしてしまおうというもの。これ以降アメリカはソ連に媚び、イギリスはアメリカに媚び、スターリンの思うままになっていく。しかし満洲事変のころに限ればソ連アメリカも日本に怯えている。満洲国が成立し、北満鉄道を満洲国が買収。ソ連は日本の言うがまま。

松岡は国際連盟脱退は失敗だと感じていた。連盟との和解に必死だった松岡に対し、それをぶち壊すような訓令を発したのは内田康哉。松岡は帰国後代議士を辞め、政党解消運動に没頭。昭和15年、第二次近衛内閣の外相になるまであまり活躍してない。対英協調を基調とする霞が関伝統の外交の信奉者の松岡がその逆を行ったのは皮肉。日独伊ソ四国同盟を構想した松岡にはソ連やドイツのスパイ疑惑がつきまとうが今後の研究に任せる。

 

満洲事変で日本は正論が通らない国になった。大日本帝国が消えて幸せになれたのはスターリンとその徒党だけだったのだから、満洲事変は日本だけでなく世界の不幸の始まり。

正論云々については統帥権干犯問題の時も書いてた。時系列的にはそちらが先。満洲事変でそれが決定的になったということなのでしょうか。

 

 なんとか本書を自分なりに咀嚼しようと努力してみました。

まだまだ咀嚼不足ですが、とりあえず現時点で、2つ疑問点をあげてみます。

1、憲政の常道」は必然的にスキャンダル合戦からの民衆の不信を招くシステムということにはならないだろうか?

2、満洲事変以降の日本が狂ったみたいなことを書いてるが、狂った理由が書かれてない。

 

大きく見て本書で学習したこととしては、戦前の日本について、軍部が悪かったとか、マスコミが世論を煽ったとか色々言われますが、著者はまるで板挟みの被害者かのような政治家たちがしっかりしなかったんじゃないかって視点ですね。

 

本シリーズ、クソつまらなかったと思いますが、読んでくれた人がいたとしたら、本当にありがとうございました。今後もたまにこういうシリーズはあると思いますが、もっと面白くかけるようになればいいと思います。

 

倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで① - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで② - 王蟲の子供
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倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑩

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10 目でーす。毎度断りますが、倉山満さんの「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んでそれを一部要約して、それをについてあーだこーだ言う形です。本書の解説ではありませんので悪しからず。

 

ここより第四章に入ります。犬養内閣成立から第一次上海事変終結あたりまで。

1931年(昭和6)12月12日、西園寺が犬養を私邸に呼び出し、「単独で行くか、協力で行くか」と聞く。犬養は「単独」と即答。これをもって西園寺が協力内閣を志向していたとする論者がいるが、もともと「協力内閣」拒否を公言している犬養に決めさせるということは、「憲政の常道」の維持であり、組閣のあり方に元老が押し付けるのがよいのか、次期首相が自分で責任を持つのがよいのかという違い。「協力内閣」運動と安達の造反が「憲政の常道」の規範性を大きく損ねたが、西園寺と犬養の会談は「憲政の常道」を支える儀式。

ところで「戦前は政権交代の後に総選挙で承認を得ているにすぎないから民主的ではない」という人がいるが、戦後も占領期を除き、多数派工作などでなく総選挙で政権交代が起こったのは、自民党から民主党民主党から自民党への、ごく最近の2回しかない。 

 前からの流れでいうと、満洲事変、10月事件などで参ってた若槻内閣は協力内閣を画策する安達内相の造反により総辞職。犬養内閣成立により、憲政の常道は一応保たれたと。

犬養に大命降下し、蔵相は高橋是清に。三井が儲けたのは確かだが餓死者身売りが続出していた東北の人々が救われたのも事実。

倒閣、政権奪還の最大の功労者は民政党安達派を動かした久原房之助幹事長だが、久原の求める安達の入閣の要望に応えず、久原の幹事長留任以外だけ認める。蔵相は余人をもって代えがたい高橋是清。高橋の最側近三土忠造逓信大臣にして高橋に敬意を払う。少数与党ゆえ、近くに選挙があるため内務大臣を三大派閥(鈴木喜三郎、床次竹二郎、久原房之助)が欲しがるが、それを抑え込み派閥色の弱い中橋徳五郎を据える。鈴木は司法大臣、床次は鉄道大臣、久原は幹事長と、それぞれかつて就いたことのあるポストに。外務大臣は芳澤謙吉駐仏大使を呼び戻す。吉澤は英語が苦手な外交官で、これが後に英語が得意な松岡洋右が派遣される遠因になる。吉澤の登用は満洲事変を解決し、協調外交に復そうとするため。陸相荒木貞夫。荒木は宇垣閥を陸軍中枢から一掃。中枢に入った荒木、真崎甚三郎、山岡重厚は「皇道派」と呼ばれ、入れなかった一夕会メンバーが「統制派」を形成し抗争することに。

犬養内閣の人事について色々書いてますが、本書でこの後多く書かれるのは吉澤外相の活躍となります。

12月13日組閣完了。高橋蔵相により景気は好転する一方、対外的には日本の信用は失墜。関東軍は錦州を攻略。日本政府は関東軍を錦州から引かせることで、満州での匪賊討伐権を認められたのにそれをぶち壊す行動。犬養はこれをこれを止めようをし、和平のため蒋介石と話を着けさせるため大陸浪人の萱野長知を南京に贈ろうとするが、陸軍に察知され頓挫。

11月29日に錦州から泣く泣く引き揚げた関東軍はなぜこの時はそれをぶち壊せたのだろうか。もうちょい説明ほしいところ。

軍事的には日本は連戦連勝。12月23日錦州への攻撃開始。荒木陸相は大規模な飛行大隊の投入を許可。満洲事変後、ソ連は極東での備えを強化。帰国中の吉澤にアポをとり「日ソ不可侵条約」を提案。一連の泥縄式行動を見れば、満洲事変がソ連のとっても予想外であったことがわかる。1932年1月3日、関東軍が錦州を占領。

1月7日、アメリカは「満洲での現状変更は認めない」というスチムソン・ドクトリンを発表。イギリスはそれに冷淡、スチムソンはイギリスが極東問題でアメリカと歩調を合わせないという報道にショックを受けたと日記に残している。

このころのソ連スターリンが如何に日本を恐れていたかということ、英米が必ずしも一体ではないことは本書でしばしば書かれていることです。

1月8日、桜田門事件(天皇暗殺未遂事件)。中国国民党機関紙「民国日報」は「不幸にして僅かに福車を炸く」つまり不幸にして日本の天皇を殺せなかったと報じる。過去(1923年)に皇太子暗殺未遂事件(虎ノ門事件)があった時、犬養はそれを理由に山本内閣を総辞職に追い込んでいる。犬養は「修練による心境の変化」とひとこと交わして終了。西園寺は虎ノ門事件の時からテロによる政変を嫌っていたから犬養続投を支持。

1月12日青島で民国日報不敬事件に対する日本人居留民の暴動事件。前年8月18日には青島の国粋会本部が襲撃された事件がある。いずれにしてもそれまではチャイニーズにとっては外国とも言える辺境の出来事だったのが、事変を本土に飛び火させかねなかった。

まあ抗日事件が頻発してたってことっすね。犬養毅は以前の主張と違ってるじゃないかという批判を軽く受け流す。

1月14日、芳澤謙吉帰国。スチムソン・ドクトリンへの回答をしたためる。「支那不統一の現状を酌量されたし」。関東軍が政府の統制を離れて勝手にやるのは困るが、満洲でのチャイニーズの横暴が元凶なのは現地を知っているものなら承知している。実際英仏もアメリカに同調していないし、アメリカでも大騒ぎしているのは国務長官スチムソンだけ。アメリカ国民の関心はリンドバーグ愛児誘拐事件。中国に暮らす欧米人はむしろ関東軍に拍手喝采

関東軍の独走に政府も困ってるが、中国に問題があるのも確かなので、我々が思ってるほど日本が滅亡の縁に追い込まれるほどの状態ではないってことでしょうね。中国に暮らす欧米人のこととか、現地と本国の意識のギャップは常にありますよね。

1月18日、日蓮宗僧侶殺害事件。しかしこの事件があろうがなかろうが日中の衝突は必然。民国日報不敬事件が原因。蒋介石自身がドイツ人顧問のもとの訓練で自信を持ち日本との対決に前のめり。

1月21日、犬養は冒頭解散。景気回復、失業率も下がり始めていたことから政友会圧勝。

細かい事件は色々あるものの日中ともに国民が激昂してるので軍事衝突は避けられなそう。まだまだ日支事変や大東亜戦争と比べると大した戦争じゃないので選挙も普通に行われてると。経済が良ければ選挙に勝つというのは結構な方程式ですね。

民政党は「選挙の神様」と言われた安達謙蔵が「協力内閣」運動で脱党していたので、井上準之助が采配を振るうが。2月9日、テロリスト、血盟団により暗殺。3月には三井財閥総帥の団琢磨暗殺。当時の世論はテロに寛容。狂った時代。

満洲事変を断行した陸軍は世論を支持していたし、大勝した政友会でも大陸での軍事行動を拡大する陸軍の尻馬に乗るしかなく、テロを賛美する風潮にも抗えなくなる。当然諸外国は不安視。

この手のクーデターの標的はあまり理性的な選び方をされてない場合が多いようですが、井上準之助に関しは一応、経済を悪化させたということはありますね。団琢磨も先に書いた三井の陰謀説によりものでしょう。ちょっとはっきり分かりませんが、軍部を中心とした三月事件、十月事件の失敗により、クーデターの主体が民間に移っていったのでしょうか。適当なこと言ってたらすみません。クーデターの主体は違えど、青年将校に対する国民の期待は膨れ上がっていたのでしょう。政権交代しても国内世論と外圧の板挟みは変わらずですね。

 

ここから第一次上海事変です。

民国日報不敬事件、日蓮宗僧侶殺害事件に対する中華民国側の返答がなかなか得られないことから上海は緊迫し、上海共同租界当局が戒厳令を出す。各国軍隊持ち場へ。日本軍移動中に中華民国兵が攻撃を仕掛ける。蒋介石の指導下にあったかは不明。蒋介石の足を引っ張りたいやつはたくさんいるから。アメリカのスチムソン国務長官は警告してきたが、本気で軍事介入する意思も能力も無いのに口先介入だけしても日本は相手にしない。ソ連は日本に不可侵条約を要求しても相手にされないのでフィンランドやポーランなど周辺諸国と不可侵条約を結ぶ。

中国は内輪揉め、アメリカは口だけ。ソ連は必死という相変わらずの流れ。

アメリカは日中関係に不干渉の質をとっていたが裏では蒋介石の軍にテコ入れ。2月上旬ボーイング218型X66Wが上海に届く。元米陸軍航空隊のロバート・ショートと日本の3機の三式艦上戦闘機が2月22日上海上空で日本最初の航空戦。厳密にはアメリカの国際法違反だが、アメリカは「民間人が勝手にやったこと」。日本軍の航空戦力が無敵を誇ったのは昭和12~17年ごろ。このころはまだロバート・ショート1機に3機がかり。

支那事変後のアメリ義勇軍、フライングタイガースは比較的有名ですが、この時にも既にまあ裏でアメリカが蒋介石を支援してたと。どの程度重要なことなのかはよく分かりませんが。

蒋介石にはドイツ人の軍事顧問団がついており、また当時の軍縮で余った世界中の武器が中華民国に流れ込んできていた。少なくとも張学良より手強い軍勢。海軍陸戦隊だけでは太刀打ちできず、海軍大臣大角岑生はプライドを捨て陸軍に協力を依頼。当たり前のようだが支那事変(第二次上海事変)では、同じ状況で海相米内光政は初めは首相や陸相の議論を静観してたのが、身内から犠牲者が二人出た瞬間激昂し、陸戦隊だけえ進撃を開始し、陸軍も強硬策を取らざるを得ず、ついには南京まで進撃し、泥沼の事変の末に配線の憂き目を見た。外相の芳澤謙吉「原因は中華民国の排日行動」など出兵の正当性を訴える。陸海軍に外務省の連携。往年の明治外交では日常的だった後継。何故後の支那事変や大東亜戦争ではやらなくなったのかが謎。

 第一次上海事変の時点では陸軍、海軍、外務省がまだ連携が取れている。何故できなくなったのか謎と書いてありますが、その謎の理由を推測でも説明ほしいところ。

荒木貞夫や真崎甚三郎は「竹槍3千本あればソ連に勝てる」など観念論を振りかざしていたとデマを流されるが、荒木が記者に寛大で放置したから広まった。皇道派はむしろ兵器の近代化に熱心だった。ただしそれを予算不足で高橋是清に拒否され失脚していくがそれは満洲事変が終わった後。皇道派満洲事変の勢いに乗り、国民広報にも力を入れる。従来は新聞が中心だったが荒木陸相時代からは雑誌展開にも積極的に。

 荒木貞夫皇道派の前の宇垣閥はどうだったのか、Wikipediaから引いてみましょう。

宇垣は永田鉄山陸軍省動員課長に据え、地上兵力から4個師団約9万人を削減した。その浮いた予算で、航空機・戦車部隊を新設し、歩兵に軽機関銃重機関銃曲射砲を装備するなど軍の近代化を推し進めた。

永田は、第一次世界大戦の観戦武官として、ヨーロッパ諸国の軍事力のあり方や、物資の生産、資源などを組織的に戦争に集中する総力戦体制を目の当たりにし、日本の軍備や政治・経済体制の遅れを痛感した。宇垣軍縮は軍事予算の縮小を求める世論におされながら、この遅れを挽回しようとするものであった。統制派の考え方はこの流れをくむものである。

皇道派 - Wikipedia

 つまり宇垣閥も皇道派も軍の近代化を目指したものの、宇垣閥は軍縮の中での近代化を目指し、書いてませんが文脈からすると軍拡の中で更に近代化を目指したということでしょうか。まあそう単純化は出来ないんでしょうが、著者の言いたい点としては皇道派も精神論だけじゃないんだよということでしょう。

列強は利権があるので抗議してくるがこの中で一方的に蒋介石に肩入れしてるのはアメリカ(スチムソン)のみ。日本は「軍事行動の自由は担保させてもうらう」と回答するのみ。この間も関東軍ハルビンを占領、2月18日に満洲独立を宣言させる。大日本帝国満洲や上海で何をしても米ソも手出しできない軍事大国。日本は明確な敵であるソ連や原則論を振りかざすアメリカではなくイギリスを仲介者に。停戦協定は5月5日に英国総領事館で調印。上海事変は陸海軍が有利に戦闘を進めて有利に外交を運んだ、日本の軍事的優位が外交的勝利に結びついた最後の戦い。

この後、アメリカのハワイ海軍演習について書いてそこから山本五十六の用兵をボロクソに書いてますが、あまり理解できませんでした。航空機により制空権を握りながら艦隊決戦をすればよかったのに、航空機での戦艦撃沈戦術で行ったので失敗したと。航空機攻撃偏重を批判したいのでしょうが、「ハワイ・マレー沖海戦で米英の戦艦を航空機で沈め」たと書いてるのに、「もちろん航空機による攻撃で戦艦は沈みません。」と書いてるので文章が矛盾してると思います。

 

長くなりましたがまだまだ続きまーす。

 

倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで① - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで② - 王蟲の子供
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倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑨

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 9 目でーす。毎度断りますが、倉山満さんの「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んでそれを一部要約して、それをについてあーだこーだ言う形です。本書の解説ではありませんので悪しからず。

 

それにしても今回も倉山さんの独擅場で、私としては「そうなんだったんだ。へー。」みたいな感じしかないので、ほとんど自分の意見は書いてません。まあそちらの方がいいという話もありますが。

チェコポーランドなどの小国は、国際連盟を使って日本を抑え込むことが、ソ連や将来復活するドイツからの脅威に対するモデルケースになると考え中華民国の味方へ。日本政府は国際世論と関東軍の板挟みに。

小国のスタイル。こういう力学も面白いですね。

若槻首相はノイローゼ、安達内相のが二大政党による「協力内閣」を提案。これは与党第一党の総裁と野党第一党の総裁の二人だけが総理大臣候補である「憲政の常道」の放棄を意味する。優柔不断な若槻首相は重臣に相談に回り、これが重臣ブロックを排撃する右翼に利用される。天皇自身すら誹謗中傷の対象となるビラまで撒かれる。これに対して西園寺公望は「陸軍にアカがいる」と決めつけるが、当たらずとも遠からず。橋本欣五郎などの資金源はソ連に行き着く。(三田村武夫大東亜戦争スターリンの謀略』)

 戦前の右翼は(戦後も?)左翼にそっくりだったり、結果日本に仇なしてることが多いので、どこまでソ連とかの関与があるのか判断が難しいですね。将来的にもどこまで明らかになるのか。。。

二大政党による「協力内閣」に対して、政党政治家以外を首班とする工作を「挙国一致内閣」と称することもあるが、「憲政の常道」を放棄する点では同じ。きっかけこそ満洲事変だったかもしれないが政治家自身が放棄した。

関東軍の暴走とか、外国の干渉とかいろいろあったかもしれないが、政治家がだらしなかったんじゃねえの?ってことでしょうか。

かつての通説では安達が主導した「協力内閣」運動は、軍部に媚び「憲政の常道」を破壊した陰謀にすぎないというもの。それに対して異を唱え、「協力内閣」とは別の、宇垣一成朝鮮総督を首班とする「挙国一致内閣」構想は軍部を掣肘出来たはずだとの説が今の通説。旧通説のほうが正しいように思える。

二つの説が必ずしも二律背反ではない気がするがちょっとよく分かりませんでした。いずれにしても、著者は同意しかねるが現在の通説では宇垣内閣が発足してたらうまくいってたんじゃないかってことなんででしょうか。ここらは私の読解力不足のためよく分かりませんでした。ちなみに本書では「協力内閣」と「挙国一致内閣」を明確に区別してますが、区別せずに使われることも多いようです。

井上準之助が「協力内閣」反対の旗幟を鮮明にすると民政党のほとんどは「協力内閣」運動に背を向ける。弱気だった若槻首相、幣原外相も、井上準之助指導力で立ち直っていく。若槻内閣は「国際社会の信用を取り戻すために関東軍を統制する」で一致。外国は外相の幣原が抑える。関東軍参謀総長の金谷範三が抑える。関東軍は錦州城を前にして泣く泣く引き上げる。当事者能力を取り戻した若槻内閣に、英仏、国際連盟の小国、連盟非加盟国のアメリカも信頼を寄せる。リットン調査団を受け入れる代わりに満州における匪賊討伐権を認められる。

通説では日本の惨敗だが実際は大勝利。当時の人は分かってたので報道に沸き返る。井上準之助指導力関東軍の独走を押し返す。

柳条湖事件が9月18日、国際連盟での巻き返しが12月10日です。

安達謙蔵内相の側近、民政党顧問の富田幸次郎が、政友会幹事長、久原房之助と「協力内閣」樹立の覚書を交わし、12月10日に首相官邸に突き付け履行を迫る。若槻は拒否し、首謀者安達を問い質す。休憩中に安達は家に帰り引きこもり。当時は大臣が一人でも造反したら総辞職をしなければいけない時代。しかし慣習法に過ぎず、安達を罷免すればよかった。翌11日若槻内閣総辞職

ジュネーブからの第一報は10日朝、11日の午後の新聞には「日本外交大勝利」の文字が踊っていた。一日ずれていれば政変にならなかったかもしれない。

西園寺公望は若槻民政党内閣続投か、犬養毅政友会内閣に政権交代か悩む。「陰謀による政権交代は認めない」と「政策の行き詰まりには政権交代」。今回はどちらの解釈が正しいのかが、元老に委ねられた。世間はどう見てたか。新聞は閣僚全員の辞表提出を聞いて政権移行を当然と書き立てる。結局犬養毅に大命降下。

この政変は三井の陰謀との説がある。井上準之助の金解禁に三井は困っていた。真相は別にして西園寺の判断基準にはなった。

 安達内相により始められた政変の説明ですね。この政変を陰謀とすれば民政党内閣続投。政策の失敗とすれば政友会への政権移動。安達が覚書を突きつけるのが一日遅ければ世論が味方して辞表出すことなかったかもってことですね。

三井の陰謀説については本シリーズ⑥でも説明しました。

いずれにしても、著者は多くの優柔不断の政治家の責任が大きいと思っているようで、それに比し、井上準之助の芯の強さを大きく評価しているようです。金解禁という大失敗にも関わらず、です。

 

さて大命降下した犬養内閣、関東軍の動向はどう進んでいくのでしょうか?!

 

倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで① - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで② - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで③ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで④ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑤ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑥ - 王蟲の子供

倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑦ - 王蟲の子供 
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑧ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑨ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑩ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑪ - 王蟲の子供

倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑧

倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで① - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで② - 王蟲の子供
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倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑨ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑩ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑪ - 王蟲の子供

 

  8回目でーす。毎度断りますが、倉山満さんの「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んでそれを一部要約して、それをについてあーだこーだ言う形です。本書の解説ではありませんので悪しからず。

政党内閣政治への不信、幣原軟弱外交、大不況により民衆の不満が高まるが、エスタブリッシュメント(元老、宮中高官、財閥、政治家、高級官僚など)に比して「もはや信じられるのは軍人さんしかいない」となるかというとならない。当時の陸海軍の上層部こそ、エスタブリッシュメントに媚びて出生していった人たちだから。その嚆矢が田中義一。政友会総裁原敬の力が強くなるとともに、原に従い、ついに政友会総裁から総理大臣に。その一の子分が宇垣一成で、宇垣は事実上民政党の身内と化す。一方、政党内閣は、政変と言っても本人が辞めたいといって辞めてるのであり、政党内閣自体は強力な体制。大川周明などの民間右翼によるクーデター未遂事件などがあるが、夢のまた夢。 

 さてさて、政治家への不信が高って軍人さんへの期待が高まったわけではないとのこと。しかし満洲事変でヒーローの登場に熱狂したとなってるので、軍上層部と青年将校と分けてるということでしょうね。ところでたまに「威張ってる軍人さんもいた」みたいな証言に出てくる軍人さんはどういう人たちなんでしょうか。人数的にも多い下級兵、或いはその叩き上げの下士官なのか、どうなんでしょうかね。

 

本書では思想団体に関する言及はほぼありませんし、あった時にも大した影響ないみたいなスタンスに見えますが、論壇を軽視してるわけではありません。が、本書ではほぼ書かれてないので別書に当たりましょう。

民政党、政友会の二大政党は日本津々浦々に強力な地盤を構築しており、強力だが腐敗していた。強さの基盤は「予算」。選挙に勝てば予算を好きにできる状況がこの頃出来上がる。その最大の功労者が井上準之助。井上の信念に世論は支持を強め、金解禁によるデフレの予感の中にあっても与党民政党は総選挙で大勝。このような、内地では体制転覆できないから外地でやろうというのが満洲事変。しかも満洲事変には大義名分がありまくった。現地では日常的に、法的に日本人である朝鮮人が拉致されていた。石原莞爾がやろうとしたのは、満洲事変で満蒙問題を解決し、政党内閣と幣原外交を葬り去る一種の反政府革命だが、自分たちの独走に政府が追随するの必要な成功率の低い賭け。だから国民の賛同を得やすい満蒙問題(拉致問題)を争点にした。

政党内閣の強さの基盤を作ったという井上準之助が蔵相に就いたのは1929年。その前にも第二次山本内閣で蔵相だったがここで言ってるのは1929年。満洲事変は1931年。腐敗するほど強い二大政党の地盤と、政党内閣の強さは別の話?ちょっと分からなかった。

 

世論が井上の信念に支持を強めたにも関わらず、満洲事変に民衆が熱狂したというのは一見矛盾してるようにも見えますので、もう少し詳しく知りたいですが、今を見ても世論は全体を知って判断してるわけでもありませんしね。

陸軍は長州閥最後の領袖、田中義一が没した後は宇垣一成の天下。これに対し中堅層が一夕会を結成。荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎をもりたてる。皇道派。統制派両方いるが、要するに先に出世したのが皇道派で後から権力を奪ったのが統制派。陸軍派閥抗争は一夕会の内ゲバ。バラバラだが満洲事変直前の段階では政党内閣に媚びた宇垣閥打倒で野合。

皇道派と統制派については色々読んでもよく分かりませんでしたが、この説明はとても明快ですね。今後そういう視点で見直して見ようかなと思います。

柳条湖事件関東軍の芸術的自作自演。列車が転覆しないよう、日本人被害者が出ないよう火薬量など全て計算。自作自演と分かったのは1956年。中華民国も自作自演は日常的にやっている(黄河決壊事件など)。日本が下手だったのは国際社会への宣伝。関東軍が進出、日本政府が不拡大方針発表、再び関東軍が進出、の繰り返しだからだんだん国際社会から信用されなくなる。

自作自演が分かったのってそんなに後だったんですね。それにしても国際社会への宣伝が下手っていつからの伝統芸能なんでしょうか?

柳条湖事件の謀略は、関東軍司令官の本庄繁や参謀長の三宅光治も知らない、派閥仲間の内々の謀略。事件は9/18夜半に起きるが、夜中のうちに既に東京には「関東軍の自作自演のようだ」という電報が入っている。

 

関東軍1万5千では流石に頭数が足りないので、隣接する朝鮮軍の参謀、神田正種に話は着けてあった。事変開始後に聞かされた朝鮮軍司令官の林銑十郎は奉勅なしに満州へ出動するのに恐懼するも断行。国内の新聞は大絶賛し、林銑十郎は「越境将軍」と呼ばれる。

関東軍は「自衛」という大義名分があったが朝鮮軍にはない。閣議で閣僚はほとんどが南陸相を攻撃する幣原外相の味方だが、若槻首相は追認。昭和天皇統帥権干犯に当たるのではないかと疑問を口にするが、結果的には「閣議が認めたから違法ではない」となる。この満洲事変、特に朝鮮軍の越境出兵が認められたことを機に下剋上の機運が高まる。危険な徴候。

事件後すぐに自作自演のようだと電報があったのに1956年まで分からなかったというのはどういうことなのかよく分かりませんがまあいいか。軍を適切に処分しなかったという点では、三年前の張作霖爆殺事件と同じですね。適切に処分できてたらその後は変わったのでしょうか。そうかもしれませんね。しかし全体的に見て満洲事変までの流れ自体は必然とまでは言わないまでも自然な流れな感じがしますけど。

日本国内はヒーロー登場に熱狂。中華民国国際連盟に提訴するも、かつて排斥運動で苦しめられていたイギリスは事情を承知してるので、国際連盟は冷淡。ところが10/8の錦州爆撃により情勢激変。石原莞爾は確信犯。以後、国際連盟の決議は13対1が常態化。孤立の象徴のような数字になるが、全会一致でないと決められない国際連盟の決議に騒ぐ必要はないのに我々のご先祖様はナイーブでセンチメンタルで外交知らず。国内でも政党内閣を倒そうとクーデターもどきの10月事件。橋本欣五郎は幕末の志士を気取ったクーデターマニア。根本博などの仲間に呆れられ密告される。陸軍は緘口令を敷くも事情通には噂は広まった模様

後の熱河作戦もそうですが、錦州爆撃も、関東軍なにやっとんねんとも思う一方、それは国際連盟を世界の全てのように錯覚してるからなのかもしれません。まあ著者によると石原莞爾は確信犯とのことですが。

満洲事変は世論の支持を受ける。南次郎陸相などは、満蒙問題の解決を意識していたが、北満には慎重だった。石原莞爾ソ連は五カ年計画の途上で攻めて来れないと予測、的中。駐ソ大使広田弘毅は10月28日、「北満での自由行動」を宣言。翌日ソ連は中立宣言を一方的に発表。事実上の北満放棄宣言。第二次世界大戦前後、スターリンコミンテルンを使って様々な謀略を成功させているが、このころはまだまだ。日本軍を極度に恐れてる。むしろ満洲事変の脅威に対抗するためにコミンテルンなどの情報機関を強化したのが実態。

関東軍の謀略は絶好調。当初は満州を日本が直接領有することを考えるが、日本政府に方針として押し付けるのは無理と考え、満州人自らが起こした独立運動を支援する建前で、独立国家建設の工作。溥儀を皇帝に迎える。外務省も察知し、「溥儀の連れ出しと擁立を中止させろ」と天津総領事に訓令を出すが、脱出成功。

関東軍イケイケっすねー。著者は度々、このころのソ連アメリカは日本を恐れているということを言っています。著者は何でもかんでもコミンテルンの陰謀とすることを戒めてはいますが、実際どのぐらいがソ連の陰謀があったのかは判断難しいですね。少なくともヴェノナ文書に書いてあることに触れずその頃のことを著述する人たちは誠実さがないのではないかと思います。

 

満洲事変から満洲建国、満洲帝国への流れについては以前に石原莞爾のことを書いた時に触れたのでよかったらご参照ください。しかし溥儀の脱出劇だけでも一つのドラマ撮れそうですけど、失敗してたらどうなんったんでしょうね。この辺はなんか単純に歴史ロマンって感じがしますねー。

 

倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで① - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで② - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで③ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで④ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑤ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑥ - 王蟲の子供

倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑦ - 王蟲の子供 
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑧ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑨ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑩ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑪ - 王蟲の子供

倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑦

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倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑤ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑥ - 王蟲の子供

倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑦ - 王蟲の子供 
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倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑨ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑩ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑪ - 王蟲の子供

7回目でありんすー。毎度断りますが、倉山満さんの「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んでそれを一部要約して、それをについてあーだこーだ言う形です。本書の解説ではありませんので悪しからず。

1929年、日本は浜口雄幸内閣。蔵相井上準之助。金解禁、緊縮財政で経済どん底汚職とスキャンダルによる政党内閣政治への不信、幣原軟弱外交、大不況。

満洲事変前史の国内状況として非常に分かりやすいですね。

1929年、中華民国は対華二十一箇条要求に関わっていた小幡酉吉を駐支公使にするのを拒否。外務省は数々の排日行為よりも、役所組織をお侮られることが許せず。数々の排日行為を処理しない外務省に対して「国家意識が欠如してる」「平和主義への盲信だ」「支那という呼び名を中国に変える前に反日教科書に抗議しろ」などの批判が起きる。今と同じ。

 筆者の言う通り、ほんといつの話やねんって感じですね。支那と言わずに中国と言おうと浜口雄幸内閣が閣議決定したという話は初めて知りました。反日教科書って当時もあったんですね。どういうのなんでしょう。そもそも当時の中国の教育システムってどうなってたのか、想像すらつきません。

 

支那、中国の呼称について、現在の外務省のHPによると1913年に「支那」と呼称するように閣議決定されてるんですね。

 日本政府は当時、条約や国書を除いて中国を「支那」と呼称するとの閣議決定(1913年6月)に基づき、中国に対する呼称として通例、「支那」を使用していました。

(中略)

 こうした中国官民の感情に配慮して、1930年(昭和5年)10月、浜口内閣は常則として「中華民国」との呼称を用いる旨を決定しました。

外務省: 第二次外相時代 幣原外交終焉の時

支那はChinaと同じ語源なんでしょうから漢字文化圏だからこそ起こった問題ですよね。つまらないことで話し合い時間取られるのてだるいでしょうね。。

 

先に進みます。

1930年、海軍軍縮会議。アメリカはフーバー大統領、イギリスはマクドナルド首相というまともな人たち。日本の国是対米7割に対し、69.75%まで認める。日本も概ね歓迎だが、海軍軍令部は不満。

軍令部は何が不満やねん。ということで東郷平八郎老害とか言われる理由のひとつなんでしょうけど。こうして書くとフーバーさんとマクドナルドさんは仲良しさんみたいに見えちゃうかもしれませんが、すぐ後で出て来ますが別に二人の時代が英米が仲良しだったというわけではありません。英米を一体のように考えるのは間違いだと著者は度々書いております。

ロンドン海軍軍縮条約批准は戦前政党内閣の金字塔と言われる。が、軍令部の同意していない条約を結んでくるとは憲法違反だという言いがかりの統帥権干犯問題が起こる。「憲政の常道」が続いて敗戦がなかったら誰も覚えてないような問題だったろう。ロンドン条約批准問題と統帥権干犯問題の本質は正論が愚論に押し潰されていったこと。

1930年浜口雄幸狙撃で重態、その後死亡。憲政の常道では政策の失敗での総辞職のではないので、そのまま民政党若槻礼次郎内閣へ。幣原外交も井上財政も継続。

 憲法問題というと日本国憲法下の近年でも、集団的自衛権の問題とか色々あると言えばありますね。数年前の特定秘密保護法の時の大騒ぎとかもほとんど忘れ去られてますかね。つまり例えば特定秘密保護法が通ったことで安倍首相とかが暗殺されてしまうような感じですかね。

アメリカはフーバー・モラトリアム政策でイギリス潰し。イギリスのマクドナルド首相は与党労働党を追放されるが、保守党・自由党と連立を組み、挙国一致内閣。それを見て日本でも挙国一致内閣をとの声が出てくる。中華民国では汪兆銘が広東政府を作る。張学良は相変わらず満洲でギャングのようなことをしてる。1931年、内田康哉が満鉄総裁として赴任。1930年6月、諜報員が惨殺される中村大尉事件、7月、満洲朝鮮人が中国人農民にいたぶられる万宝山事件。朝鮮半島で中国人排斥運動。チャイナタウン破壊などの暴動。幣原外交への批判が高まる。

先程書いたようにこのようにアメリカとイギリスがいつも仲良しというわけでは全くないと。挙国一致という言葉自体、イコール日本の軍国主義みたいなイメージの日本人がほとんどな気がします。しばらく先のことではありますが、第二次世界大戦ファシズム自由主義みたいなステレオタイプは全く時代状況を無視した見方でしょうね。

 

内田康哉は後に外相になりますが、著者が史上最悪の外相という人です。幣原外交への不満が高まり「満蒙は日本の生命線である」が大流行したところで第二章終了でーす。

 

倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで① - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで② - 王蟲の子供
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倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑥

倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで① - 王蟲の子供
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倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑪ - 王蟲の子供

 

 6回目でーす。毎度断りますが、倉山満さんの「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んでそれを一部要約して、それをについてあーだこーだ言う形です。本書の解説ではありませんので悪しからず。

ワシントン体制の中、日本はデモクラシー、「憲政の常道」を謳歌立憲政友会と立憲民政党の二大政党。民政党の前身、憲政会は加藤高明が外相時代、対華二十一カ条要求を元老に相談せずに決めていたことから元老、特に親中派西園寺公望に嫌われていたため不遇の十年を送っていたが、米英中との協調姿勢を示すため幣原喜重郎を外相にし西園寺へアピール。この加藤高明内閣が「憲政の常道」の始まり。しかし衆議院第一党の総裁が第一党になる「憲政の常道」は政策で行き詰まって総理大臣が政権を投げ出した時は第二党の総裁へ政権が移動するため、汚職やスキャンダルの暴露合戦に明け暮れ、民衆は二大政党への不信を抱くようになる。 

 この辺りの政党政治とか憲政の常道に関しては、保守論客の中では恐らく倉山さんが一番詳しいんじゃないかな?私の知る限り。だから個人的には本書の中で一番勉強になったとこかな。しかしこの「憲政の常道」のシステムは必然的にスキャンダル合戦を引き起こし、民衆の支持を失う構造的欠陥を持つということになるように読めるのだけどどうなんでしょうね。

民政党のスポンサーは三菱財閥、政友会は三井、元老は住友。エスタブリッシュメントの結束という点では三者が一致。中国政策についてのみ幣原外交の民政党が協調外交、政友会が強硬外交。しかし当時は国の体すらなさない小国なのに国運を賭けてまで介入する問題ではないのになぜそんな問題で大日本帝国が滅んだかというのが満洲事変の核心。

このスポンサー関係に関しては後に、金解禁に関するところでも出てきますので一応押さえておいてもいいかも。まあ先に言っちゃうか。金解禁で困ってた三井財閥が政変を起こして再禁止させたという陰謀論です。事実はともかく政党と財閥の癒着が民衆の怒りを買ったようですね。血盟団事件五・一五事件とそれらのテロに対する民衆の同情への伏線と行ったところでしょうか。

中国は不平等条約を日本のように、押し付けられたものでも正規の手続きで変えていこうというのではなく、無理矢理押し付けられたんだから守らなくていいと、「ボイコット」と称して各国へテロ。まずその矛先はイギリスに向かい、1927年には蒋介石の北伐軍がイギリス租界を占拠。イギリスはブチ切れ、日米に共同出兵を打診。幣原喜重郎は拒否。西園寺はこれぞ強硬外交と称賛。南京事件発生。

こういう、法とかの約束事よりも正義みたいな考え方というのは、先程書いた血盟団事件五・一五事件などのテロについては日本人もそうですよね。著者の言う「狂った時代」ですね。なんで狂ったんでしょうね?

 

さて南京事件について出てきました。南京大虐殺」と言われる昭和12年のもの以外に、大正二年と昭和二年にもあります。こちらは中国人が加害者ですが、大正二年のものは今回初めて知りました。っていうか、日本人が虐殺された事件とかいっぱいあるから数え切れないですね。今ぱっと挙げられるのは、甲申事変(1884)、南京事件(1913、1927)、漢口事件(1927)、済南事件(1928)、通州事件(1937)、通化事件(1946)など。甲申事変は有名だけど日本人が虐殺されたことは知られてないだろうし、通化事件は戦後のことだけどこれもほとんど知られてないのでは?

昭和二年(1927年)金融恐慌を機に若槻内閣総辞職田中義一内閣は居留民保護のため三回に渡り山東出兵(1927,1928)。幣原があまりに軟弱で支那人にナメられまくったから。山東出兵を決めた東方会議には吉田茂も参加。吉田茂関東軍や陸軍の武断外交に反対してたと言われるが実際は軍よりも強硬。何故話が逆になるのか。

 吉田茂のことはついでの話ではありますが、一般的には終戦工作による逮捕歴によりGHQの信頼を得たということになってると思います。

日本は居留民保護と権益を守るのに、張作霖蒋介石を天秤にかけ、蒋介石の方がよかろうと、張作霖に北京から引き揚げるよう勧告。米ソはこれにケチをつける。張作霖が日本の勧告に従って満洲に戻る途中、張作霖爆殺事件発生。これについてコミンテルンの謀略説があるが、証拠ない。通説に従えば河本大作が犯人。関東軍総意のものを一人で泥を被った。

田中義一は当初、軍を責任をもって処罰すると言ったが、自身の身内である陸軍かわいさに一年経って結局「厳正な処分はしない」と奏上。田中義一昭和天皇の怒りに恐懼し総辞職。

著者は張作霖爆殺事件のソ連犯行説には消極的なようです。田中義一内閣総辞職の経緯については昭和天皇独白録や去年話題になった拝謁記でも言及がありますが、どこまで信憑性があるんでしょうね。いずれにしても張作霖爆殺事件の対応への昭和天皇の怒りに恐懼して辞職したという経緯自体には特に変わりはないようですね。ちなみに本シリーズでたまに参照する宮脇淳子さんの本では張作霖爆殺事件によって日本は全然得してないことからソ連や張学良も怪しいと書いています。

1928年、張作霖の息子、張学良が「易幟」を宣言し、蒋介石服従。日本政府は中華民国統一に警戒感。外務省は気にしてない様子。奉ソ戦争。ソ連圧勝。この事実をもって張学良は父の仇のソ連に喧嘩を売ったのだとする人がいるが違う。北満州の中東鉄道を回収しようとした。

 蒋介石と手打をして中東鉄道回収の方に力を入れたってことでしょうかね。張学良は生涯を通してやってることがよく分からないですがね。

 

倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで① - 王蟲の子供
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倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑤ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑥ - 王蟲の子供

倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑦ - 王蟲の子供 
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑧ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑨ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑩ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑪ - 王蟲の子供

倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑤

倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで① - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで② - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで③ - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで④ - 王蟲の子供
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倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑥ - 王蟲の子供

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倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで⑪ - 王蟲の子供

 5回目でーす。毎度断りますが、倉山満さんの「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んでそれを一部要約して、それをについてあーだこーだ言う形です。本書の解説ではありませんので悪しからず。今回から第二章に入ります。

1917年、ロシア革命勃発。日本にとって実質的同盟国を共産主義者が乗っ取って敵となってしまった大事件だが、当初日本では警戒心なし。しかし翌年ニコライ二世一家が皆殺しにされ、やばい奴らだと吉野作造ら心ある日本の知識人は警戒し始める。が、主流ではなく、インテリは「左」の共産主義に靡き、それに反発する「右」が日本精神を絶叫するという、程度の低い争いが論壇の主流へ。

 

ロシア革命に対して英仏が干渉戦争を主導。日米は言われて訳も分からず出ていく格好。当時の日本の最高権力者である、原敬は媚米、拝米で、ウィルソンに言われるまま戦力の逐次投入。

シベリア出兵に関してはそもそも語られること自体が少ない上に、全く無意味だったとか否定的な面しかほぼ聞いたことがありません。倉山さんのチャンネルくららにもよく出演される宮脇淳子さんの「満洲国から見た近現代史の真実」によると唯一の功績は、シベリア出兵期間、援助合戦でシベリアに飢餓が生じなかったことだそうです。じゃあそれが他のマイナス面に見合ったかって話ですが。また同書によると、満洲建国時にハルビン白系ロシア人ユダヤ人がたくさんいたのは革命から逃げてきた人たちだとのこと。野球のスタルヒン、大相撲の大鵬の父、チョコレートのモロゾフなどはこのころ亡命した人だそうです。

 

ところでシベリア出兵について調べると、積極的出兵論と消極的出兵論があるとよく書かれてますが、それぞれにも色んな立場があるようで、なので書いてあるものによって誰がどういう立場なのか違ったりして非常に分かりづらいです。例えば山県有朋は積極的出兵論、消極的出兵論どちらに分類されるか、サイトによって違ったりします。多分山県有朋は消極的出兵だと思いますが、登場人物の立場が色々複雑なので考え違いされたのかも。いずれにしても、ヨーロッパから要請されて行ったのに、却って悪者扱いされることになるというね。

 

先に進みます。

日本はヨーロッパの戦後秩序を話し合うヴェルサイユ会議、アジア太平洋の秩序を話し合うワシントン会議に参加。ワシントン会議直前、原敬は暗殺されるが後継の人たちも原敬流の親米は揺るがず。明治以来、南下するロシアを最大の敵としている以上、親英米霞が関の伝統外交。だがこのころから老大国イギリスよりも新興大国のアメリカとの基調を軸にしようという「米英」派が主流に。しかしアメリカは誇大妄想の国でハーディング大統領は日英同盟を放っておいたら挟み撃ちになるのではと妄想し、大戦での借金のカタに日英同盟を破棄するようイギリスに圧力をかける。イギリスは日英同盟を切りたくないので、断ってよねというニュアンスで「アメリカも入れて三国同盟とかどう?」と持ちかけるが幣原喜重郎駐米大使が気づかず、日英同盟を解消し、何の昨日も果たさない四ヶ国条約に調印。以降親英派が発言権を失う。日英同盟破棄はアメリカがさせたのに世論は反英に。この時点でアメリカは妄想的に日本を恐怖してる。イギリスにとってアメリカは覇権を取って代わろうとする敵。三角関係でいがみ合ってる。喜ぶのはソ連だけ。日本ではイギリスの悪口は言うくせにソ連の悪口は全く言わない論者が幅を利かせる。「保守」「愛国」「日本精神」を絶叫するのに何故かソ連の悪口は言わない。

 

海軍軍縮条約アメリカは「日本がうちの7割持ってたら負けるから6割に」日本は「6割だと負けるから7割に」と言ってる。どちらも対等だと日本が勝つという前提。日本は勝てるはずのない強大なアメリカに愚かにも挑んで負けたのではない。この時点で日本は滅びようがない大国。なのに滅んだ。理由は頭が悪くなったから。

日英同盟を解消し、四ヶ国条約に調印したことはよく批判されることで、それは妥当だでしょう。アメリカの反日的行動の一つとして語られることが多いと思うのですが、筆者はそれに加えて、日本が頭が悪くなったからだという主張です。だとするとなんでアホになったのかを知りたいです。

 

英国の「断ってよねというニュアンス」についてももっと知りたいし、ソ連の悪口を言わない愛国者についても知りたい。ソ連の悪口を言わない愛国者というとソ連のスパイかと想像力を働かせてしまいますが、著者の主張からすればこの時点ではソ連にそんなないはず。

 1922年の九カ国条約は、八カ国が中華民国主権国家になる機会を与えようという条約。当時の中華民国には北京政府と広東政府があり割れているばかりでなく省ごとに軍閥がいてバラバラで、そんな国と条約を結ぼうとは正気の沙汰ではないがアメリカが強硬に主張したので他の国も同意した。日本は喜んでアメリカに追従。満洲事変の遠因。

まさに当時の中国には他国と条約を結べる状態ではなかったと思います。話が戻りますが前回のエントリーで書いた21箇条要求についてですが、宮脇淳子さんの本によれば日本に亡命してた孫文と日本の民間人が結んだ中日盟約が21箇条要求の希望条項に似てるとのこと。当時のトップである袁世凱は預かり知らぬ盟約が、場合によっては国同士の条約になる可能性もあったということが正に当時の中華民国の条約遵守能力のなさの一端を表してますね。中日盟約(日中盟約)に関しては日本語のものはネットではあまり調べられませんでしたが、中国語のを一応リンク張っておきます。

中日盟約 - 维基文库,自由的图书馆

東亜同文書院大学記念センターの馬場毅さんによれば実物は早稲田の図書館にあると思うとのこと。彼の発言を一部引用します。

ただしその中でこの第5号については、大隈内閣ですら最終的に削除した内容です。私が今申 し上げた点はまさに第5号そのもので、日本政府ですら削除した内容です。ただしそういう部分だ けではなくて、中国にとっても有利な、日本側が中国側の関税自主権を回復することとか、領事裁判権の撤廃に賛成すること、これを認めるならば 日本側から援助するというのが日中盟約の内容です。

ちょっと話が21カ条要求についてに戻り過ぎてしまいましたね。多分シベリア出兵や第一次世界大戦について個人的に未消化なために今回のエントリーは内容がいつもに増してとっ散らかっちゃったと思います。

 

さてこのころの対米追従外交が満洲事変の遠因になったということはどういうことなのか、乞うご期待。

 

倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで① - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで② - 王蟲の子供
倉山満「学校では教えられない歴史講義 満州事変」を読んで③ - 王蟲の子供
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