ファシズムとコミュニズム~河合栄治郎による二・二六事件批判~

河合栄治郎 二・二六事件に就て

二・二六事件に対する批判は多いけれどもその一つ。河合栄治郎自由主義者でありファシズムに反対し、思想弾圧を受けた人であります(河合栄治郎事件 - Wikipedia)。短い文章なのでご興味があればぜひ。

 

○○主義というのはだいたい定義がよく分からないものも多いけどもファシズムは特に曖昧な気もします。全体主義ファシズムの違いも人によって色々あるようですが「全体主義と闘った男 河合栄治郎」という本もあるぐらいですから、まあだいたい同じように考えればいいんでしょうか。河合栄治郎自身の著書に「フアッシズム批判」ってのがあるぐらいですからそれを読みたいところですが、なんだか超高いし。。。

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いずれにしても当時の自由主義者は今の左翼のようなのとは違うようです。というか当たり前なんですが、今のリベラルと言われる人たちがおかしいのであって。例えば。

ファッシストの何よりも非なるは、一部少数のものが〈暴〉力を行使して、国民多数の意志を蹂躙するに在る。国家に対する忠愛の熱情と国政に対する識見とに於て、生死を賭して所信を敢行する勇気とに於て、彼等のみが決して独占的の所有者ではない。

国家に対する忠愛の熱情と国政に対する識見とに於て、生死を賭して所信を敢行する勇気とに於て」と言える「リベラル」が今どれだけいるんでしょうか。今の「リベラル」とは違い彼はコミュニズム批判も大いに行った人です。この二・二六事件を批判する文章にもこうあります。

或は人あっていうかも知れない、手段に於て非であろうとも、その目的の革新的なる事に於て必ずしも咎めるをえないと。然し彼等の目的が何であるかは、未だ曾て吾々に明示されてはいない。何等か革新的であるかの印象を与えつつ、而もその内容が不明なることが、ファッシズムが一部の人を牽引する秘訣なのである。それ自身異なる目的を抱くものが、夫々の希望をファッシズムに投影して、自己満足に陶酔しているのである。只管に現状打破を望む性急焦躁のものが、往くべき方向の何たるかを弁ずるをえずして、曩にコンムュニズムに狂奔し今はファッシズムに傾倒す。冷静な理智の判断を忘れたる現代に特異の病弊である。

これは良いことをいうし、当時の状況もわかっていいですね。私は今の「リベラル」の人たちも戦中なら容易にファシズムに加担したんじゃないかと疑ってます。当時の状況もわかってと書きましたが、それは例えば次の部分からも読み取れます。

左翼戦線が十数年来無意味の分裂抗争に、時間と精力とを浪費したる後、漸く暴力革命主義を精算して統一戦線を形成したる時、右翼の側に依然として暴力主義の迷夢が低迷しつつある。

ここで書かれてるように左翼が「暴力革命主義」を精算したのかはともかく、二・二六事件当時において世間的にはコミュニズムは衰退しファシズム的空気が蔓延してたってことでしょうか。

 

蛇足ですが東條英機東京裁判に於いて証言した全体主義についての言及を書いときます。昭和十五年七月二十六日付の閣議決定された「基本国策要綱」の中のある「諸政を一新し」という言葉に対する質疑応答。

キーナン検察官 

その言葉で、あなたは完全な統制の枠に入った全体主義政府の樹立ということを意味していたのですか。

 

東条証人 

全体主義」ということが何を意味するか、私にはよくわかりませんが、要するに国家が最大の力を発揮するような行政をやって行きたい。こういうことです、結論すれば。

こういうのが石原莞爾が批判する「東條には思想がない」ってことの表れのひとつなんでしょうか。「国家が最大の力を発揮するような行政」という意味では石原莞爾もあまり変わらないような気がするのだが。これは石原莞爾のことを書いたときにも書いたけども、石原莞爾の「統制主義」など、当時の右翼思想は非常に共産主義と似ていますし、私は当時の右翼に共感出来ないところは多々ありますが、ファシズムにしてもコミュニズムにしても隆盛していた当時はそれなりの時代背景があったのでしょう。