抑止力とは ~元寇と特攻隊~

軍事力を上げることが戦争に繋がるように考えている人たちと、軍事力を上げることが戦争の抑止に役立つと考える人たちがいます。いずれにしても国防に関心が高まってるのはとても良いことだと思います。

 

ちょっと面白いところで、皆さん元寇はご存知だと思いますが、僕らは学校などでは日本は「やあやあ我こそは」的な戦いをして弱かったけれど、運良く台風に助けられたように習って来ましたが、これは明確に嘘です。実際これを契機に大陸で日本脅威論が形成されその後の日本侵攻計画が流れたりしています。

 

元寇 - Wikipedia

日本脅威論の形成[編集]

 
鎌倉時代日本刀
鍍金牡丹文兵庫鎖太刀』

異国降伏を祈願した鎌倉将軍家より厳島神社に奉納された日本刀。元寇では、日本刀は戦場で大きな力を発揮した。南朝遺臣の鄭思肖は日本刀を評して「倭刀はきわめて鋭い」と指摘し日本征服が難しい理由の一つに日本刀の存在を挙げ[394]クビライに仕えた王惲もまた元寇を受けて「刀は長くて極めて犀なるものを製り…」[158]と評すなど日本刀の鋭さに言及している。
重要文化財厳島神社所蔵
 
鎌倉時代薙刀
『鉄蛭巻薙刀

金・銀・鉄などを柄の部分に巻いたものを蛭巻という。鎌倉時代では戦場においては使用されておらず、薙刀が用いられていた。元寇に参戦した竹崎季長が描かせた『蒙古襲来絵詞』絵十二にも薙刀を持つ徒歩武者が描かれている。
誉田八幡宮所蔵

浙江大学教授・王勇は弘安の役での敗戦とその後の日本武装商船の活動によって中国における対日本観は大きく変化し、凶暴で勇猛な日本人像および日本脅威論が形成されていったと指摘している[395]

例えば、南宋遺臣の鄭思肖は「倭人は狠、死を懼(おそ)れない。たとえ十人が百人に遇っても、立ち向かって戦う。勝たなければみな死ぬまで戦う。戦死しなければ、帰ってもまた倭王の手によって殺される。倭の婦人もはなはだ気性が烈しく、犯すべからず。(中略)倭刀はきわめて鋭い。地形は高険にして入りがたく、戦守の計を為すべし」[394]と述べ、また元朝の文人・呉莱は「今の倭奴は昔(白村江の戦い時)の倭奴とは同じではない。昔は至って弱いと雖も、なお敢えて中国の兵を拒まんとする。いわんや今は険を恃んで、その強さは、まさに昔の十倍に当たる。さきに慶元より航海して来たり、艨艟数千、戈矛剣戟、畢く具えている。(中略)その重貨を出し、公然と貿易する。その欲望を満たされなければ、城郭を燔して居民を略奪する。海道の兵は、猝かに対応できない。(中略)士気を喪い国体を弱めるのは、これより大きなことはない。しかし、その地を取っても国に益することはなく、またその人を掠しても兵を強めることはない」[396]と述べ、日本征服は無益としている。

また、の時代の鄭舜功が著した日本研究書である『日本一鑑』では、元寇について「兵を喪い、以って恥を為すに足る」と評すなど、後の時代にも元寇の記憶は批判的に受け止められていたことが窺える[397]

元寇の敗戦を通してのこういった日本軍将兵の勇猛果敢さや渡海侵攻の困難性の記憶は、後の王朝による日本征討論を抑える抑止力ともなった[398]。元の後に起こった明による日本征討論が、初代皇帝・朱元璋洪武帝)、第3代皇帝・永楽帝、第12代皇帝・嘉靖帝の時の計3回に渡って議論された[398]

そのうち、朱元璋は軍事恫喝を含んで、明への朝貢倭寇の鎮圧を日本の懐良親王に要求した。ところが懐良親王は、もし明軍が日本に侵攻すれば対抗する旨の返書を送って朱元璋の要求を受け付けなかった。この返書に激怒した朱元璋であったが、クビライの日本侵攻の敗北を鑑みて日本征討を思い止まったという[399]

 これが抑止力だと思います。そもそも今の日本が軍事力を上げることによって日本が他国を侵略すると考えてる日本人が僕にはよく理解できませんね。どれだけ自分た立ちを信用してないのか。左翼=良い人、右翼=危ない人、みたいな印象操作が数十年続けられた結果なので相当根深いものだとは思います。

 

最後に元寇が抑止力になったという考えから言えば特攻隊もまた抑止力になって今も日本を守っていると思いますね。いざとなったらこいつら命を捨ててでもやってくるぞという恐怖感が日本を敵国とみなす人たちにはあると思います。そういう意味では日本の左翼というのはまさに日本を敵国と見做しているように見えます。特攻隊員たちは今も日本を守ってくれています。